2011/7/27 衆議院厚生労働委員会に於ける児玉氏の陳述が漸く中枢に届いた模様。
退任間近の首相(2011/08時点)が意見を伺ったそうだ。
今後の扱われ方、氏の動向、方針の拡大実践については何も言えないが
方向性が示すものについて、こう感じた。
F1では冷却使用汚染水の除染が始まるが、事故器では反応が続いている模様。被害実況と汚染現況から多くが「終わった」と云う認識を持ち、それが福島周辺を忘却へと
導いている。また注目しない限り近県の茨城、千葉、栃木も福島と同等、それ以上に取り上げられない。確り現場や除染に携わる労力投入は続いている。早くから「終わった」との考えへ到ったのは、報告される被害実態に加えて原発廃止論に向かった政府の混乱、放射能の知識、汚染拡散に対する術の無さを続け様に見聞きして、それらが個人の許容限界を遥かに超えたからだと思う。「終わった」とするならば、福島のみならず関東圏も当然含まれる。しかし、身近な世間や生活圏が「終わった」としても、個人は個人の生を重視する。例え、世界が滅び行こうとも人は生きようとする。これは自然な欲求だろう。「終わった」と云う意識は政経、国家、未来まで意識を向かわせ、確かな斜陽へと
繋がる気がする。被曝国として哀れみを貰う期間は短い。緩やかな衰退へ向かう以前に、衰退予想は数十年前からあった。「国が終わった」と認識して尚且つ「自分は終わっていない」と考えるのなら、今より酷い将来があるだろう。こんな将来なら誰しも惨めへ転じる可能性は十分ある。この除染を考える方向性は「終わっていない、終わらせない」と思える。この意志は恐らく、世界へ与える心象の良さ、併せて今後や後世への貢献となり個人個人へ与える実利が確かだと思う。但し「無駄な労力」という認識が、これを遮るなら今と同じく衰退の流れの中で踊る群集に属す事になるだろう。多くは困難は避けたがるものだ。但し、事が終わるのは、事を終わらせたと決定した際だけだ。今まだ「終わった気がする」に留まっているなら、周囲や世間を「終わっていない」と云う気持ちで見た方が良い。
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