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Victory over Japan Day

終戦記念日。戦争を知らずに僕は育った。戦争体験を話せる親族は誰一人いなくなった。

終戦記念日に黙祷した年もあれば、無関心に無視した時期もあった。こうして日々、大事も無く行き続けることへの感謝よりも、徴兵された人達と現代を生きる自分との、大きな差を考えることでは共通していた記憶がある。これとは別に、罪悪感や呵責の観点に於いて、義務教育や高等教育期間中の担当教師が口にした思想伝達が記憶にある。教育は大切であり、同時に恐ろしいと今は思う。
或る一般人のストリーム配信者が、成り行きで戦時中の事件に触れた。50人未満の集まりで飛び交った意見から、今考える意見を書こうと思う。




今年で戦後66年経った。この間、友好条約が結ばれ外交や経済や交流が成立した。にも関わらず戦犯やら領土問題やら思想操作やら、やれ賠償がどうだとか侵略だとか、繰り返される。外国批難ネタは自国利益優先の戦略でしかない。騒ぐ処に金の動きがある。金の為、利益の為に問題を吹っ掛け合ってるだけだ。この思惑に踊るのは阿呆です。「踊らにゃ損々」以前に、踊らされてる事すら判ってないのは、救い様の無い阿呆だと断言する。しかし、流行や時流、安心安定の人生設計マニュアルに、違和感持たず自然と乗れる人間の方が気楽な一生を送れる。従順は正しく、素直さは好まれる。「よくわかんないです」が良い。変わりもの/ヘンな奴/捻くれ者は不要素。叫ぶべき風潮で叫ぶことは、そうしたい個人にとっては不利益では無いだろう。

このストリーム配信でアンケートが取られた。南京事件はあったと思うか?  その結果は、
ある 54%  ない 46%  どっちでもいい 0%  だった。
50人にも満たない統計だが、無関心な者が殆どいなかったマトモな点に、安堵した。南京事件については「事件」だとしている。内容が「虐殺」と判断されるには死者数や実態が曖昧で、今も検証が続く世界だ。「こういうことがあったんです!」と一般人が語っても、特集 web サイトがあっても、これらは参考であって私は真実としては取り扱わない。一方、世界は虐殺または大虐殺だと認識していると思っている。しかし、戦争中である前提から外れ、結果だけを批難すれば世界中全ての戦争行為が虐殺ではなかろうか。南京に付加する場合の「虐殺」は「虐殺」という単語が現す意味を超えた所の「凄惨さ」を含んだ意味だとしたい。そして、この件が何故に虐殺と言われるのか、を語り合う時その紛争内容を無視して、写真や書物で得た印象と生まれた感情、そこからの口伝えによる流布に、危険を感じる。不確かである事が事実認識を更に歪曲させ、心象認識に留まる。写真や書物また証言に或る程度の作為的な捏造があることも知られている。これらが絶対排除されない中で事実がどこまで歪曲されているか、そして真実は何か、と言い争っても収拾付く筈がない。誰かと話しても、意見交換する為のテーマでしかない冷酷さ、テーマをバイパスにした相手の思考確認と理解にのみ落ち着く残酷さ、を指摘したい。曖昧さを含めた此の紛争が、時を越えて対外感情の一つになったり、極論に到るだけのテーマになったりする事の方が地獄だと思う。そして誰かを憎むキッカケにもなる愚かさが存在する。
侵攻/侵略/浄化等の考えに直ぐ到れる人はある種の御人好しだろう。お花畑が拡がる世界は良いものだろう。その世界を見せて極楽へと誘う思惑に全く気付いていないからだ。冷静さと考える事も忘れた世界は易しい。

僕が高校生の頃、クラス内で政治や思想の話が出ると、今と同じく自国政治の腐敗やアメリカ批判なんぞを稚拙に息巻いて話していた。当時は特亜の事なんて誰も口にしなかった。何故戦争に発展したかの経緯や巻き込まれた国々の状況、その末にアメリカが落とした爆弾。歴史に沿って習っただけの僕らは、事態へ発展した利害関係の複雑に、ただ「仕方なかった」と言うしかなかった。当面の進路や異性感情が多くを占める学生が、自分たちの今の無事と幸せを意識する中、こう答えるしか無かったのは、戦後復興に生きた全ての人達への感謝を多少なりとも感じていたからだ、と今振り返って思う。
しかし、殺した人も殺された人も今は居なくなりつつある66年後の今になってネットワークコミュニティーの場で再び、感情論が土台となっただけの主張者が目に触れる。生まれる以前の過去を無理矢理に今の自分へ含め、大方が立派な思想喧伝者である。この様な花畑を見せられるとキツい。ただ蒸し返し、その時だけ悲しみと怒りに触れるのなら、人生に内包する意味は無い。

真実を知りたい気持ちに国境はない。受け止めた時の基準が国境となるか、又は人類上の一個人で捉えるか、こういう人物評価の物差しがある。都合のいい民族意識は過去を強請りのネタとして扱い、敵がいなくなれば内輪で揉め始める。世界中にある呪縛が未来を遮る。

敗戦国である日本は、敗戦認識を対外政策に現し、同時に良心の呵責を時折見せてきた。しかしまた影響力のある個人が時折、物議を醸す発言をする。自国の歩みを省みず、今の自分個人で事を考え過ぎると起こる素行だろう。そうして、良心の呵責を継承する人は戦争反対を添えて今も健在だ。過去を利用して想定敵を創り出す喧伝は各国にある。66年間、何もしなかった訳ではない。条約締結もあった。こういった過去の努力は「共に未来へ進もう」と云う確認と意志だった筈だ。

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