天候は崩れたものの春先めいた気温が幸いし、温色の外灯が大気中に漂う霞の存在を教えてくれた。私が営んでいる街は霧の中に沈む。月曜の夜と云うこともあり酷く物静かな大通りは見通せる先まで朧気である。混迷と云う道があるのなら、この光景が相応しいだろ。見通しが効く目をもつ私は、だから不安もなく、この道をスキップしながら鼻歌交じりで腰はハワイアンダンスの様にハァハァ震わせ腕は優雅に筋肉体操マッスゥルマッスル!、口元の寂しさはペロチューで紛らわせながら進んでいくとしよう。ときに似通った気候に包まれた際、古ぼけた記憶が呼び覚まされることに私はまだまだ優しいのだ気付いた。3月並みの気温と霧の街並みに誘われた記憶は感覚的なものだった丁度こんなものだ。数時間を拘束され勉学に励む時分にふと住む土地の景観を感じたりする時のことや、不自由はないがどこか満たされない気分を晴らすべく仕方なし車を走らせてしまった時間のことだったりかもしんない。周りにいた人が全く違っていたそれぞれの記憶に共通するものは"受け止める感覚"である。取り巻く環境/成長過程は違えどもこの"感覚"は生まれてから変わっていないのである。経験してしまったことによって大人は頑固な垢を作ってしまった。落とすのは大変だろうからそのままでよい、無垢な状態になりなさい、出来るだけ。そうして思考を取り払った状態で戯れることを"遊ぶ"と云うのです。時間から分離されそな狭間の手前で自己は細かく振動します。
・・・えぇ、そーですよ 霧のようにね、霞んで、見えるんです。
ぁあ卒業式で泣かないぃと 冷たい人と言われそう
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