赤っ恥の断片
哲学は、哲学するものではない。読み学ぶものではない。
自らの内部に発生する衝動の究明と、仮定の実践である。
衝動、感覚出来ない事を、読み補っても無意味である。
また、そうとは理解出来ずとも、命ある限り、全ての人間は多少なりとも
必ず哲学している。
自分が知らなかった世界へ飛び込めば必ず、それまで知らなかった世界の事実を知ることになる。
自ら飛び込まなくても日々発生する予測不可能な事象が、これを十分含んでいる。
事実は時に残酷で卑劣だが 「知らぬが仏」 よりはマシ。無知ではいけない。
加えて、知らずにいる人を馬鹿と罵るのは間違い。
知らずにいた人が事実を知った後、どう考え落ち着き、どう言動するかで判断すればいい。
その程度に依って、馬鹿とするのは許される。そして馬鹿を知る。
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この世で最も残酷なのは
「出来上がった自分の世界観から抜け出せず
外界の理屈を軽くに止どめ
当面の欲求を叶える為だけに力を誇示する事」だ。
ただ過ごした年数分の、僅かな経験だけで、自分の身を固めてしまい
それを破壊して成長する行為が怖い小心物にはならない。
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不安は外から飛び込んでくるものではなく、不安と受け止めてしまう心にある。
不安と受け止めてしまう "弱さ" を生涯に渡って克服するのが人生の意味だとする。
死ぬまでに少しでも弱さを取り除こう。
コツは生きてる間に何度も自己を壊して失うことだ。
生きてる間の不安は遭って当然のことだ、最大の不安は自己の消滅じゃないか。
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一般社会の常識上、陰湿嫌悪に捉えられる性表現が
転じて豊かで大らかになるのは、人間性と知性の向上に他ならない。
正しく愉しく安全に性を楽しむ事は常人ならば可能だ。
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「始まりと終わり」は何時でも何処でも起こっている。
特に人間は、ちょっと咲いては直ぐ枯れて、経験と困難を肥やしに、また咲く樹木みたいなもの。
これを葦とした偉人もいる。
また、命の継続自体を開花と例えれば、生涯の点々とする困難に際し、感傷的になる必要もない。
1,思考パターンを置き換える。
人生の経験則は数学に例えると、"公式" となる。個人は、この公式で判断し意思決定し行動する。
他人の公式を見つけてたまに組み込んでみる。
2,生きてる間に死ぬ。
どっちも自己破壊と再生の手法だとする。
他人とは、自分とちょっと違う or 全然違うだけの人間だ。脳や眼球、内臓や肢体は部品でしかない。
最も重要なのはOSとアプリ、自己/自我である。
人間は生命体の一部で、地球上のパーツであり、そして宇宙の塵である。
自分を大事にし過ぎるな。いつでも自分を壊せる考えと勇気を持つべき。
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この世の相関や集合体は全て只の部品だ。
親/社会/行政/法律/土地/時代/命、これら全てが "拘束" である。
自分や命の尊さを考えるの全部気晴らしにしか過ぎない。
果ては自分の個性や人格、存在思念すら拘束である。自我の核心は非常に無垢である。
たまには神様視点もいいだろう。
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生きている間に死ぬ」・・・この感覚と考察の変換を久々に持ち出した後に思う。
師事も解読もせず目に見えるだけの世界から概念的思考で以って単独考察した僅かな結果の多くは
哲学とも取れる印度系仏典に結び付く。
人に何かを言うだけの今、内部考察の衝動となる、強大な自己妄想哲学者と再び知り合いたい。
しかし、そうのような人物が老いては去り、社会から排除されてしまったようだ。
世界や宇宙は萎えるほど無限大なのに、私が求めるものは僅かと云う事実に、淋しさを覚える。
生命活動が終わることよりも、見るべきもの知るべきものが無常等に置き換えられ
やがてべきものが亡くなってしまう事の方が、怖ろしいかも知れません。
「見るべきものを見た、知るべきものを知った」 これは淋しい。
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興味を持った人の言葉に傷付いたりするのは良い傾向だ。傷付くのは衝動である。
衝動なくして自己開発は無い。
その人物の人格を知り考えを知り、そうして対象者の一部を"食べる"がいい。
対象者を食べて、自己は肥える。そして膨れ上がった自己を自ら破裂させる。
馬鹿-莫迦-梵 も世俗に転がる教えの一つである。好き嫌いを失くせ。
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どれほど理論武装しても、重要なのは其の実践である。
かと言って、学者や識者や著名人に目を向けるのは違う、愚かだ。
まずは自分の親である。ロクでもない親でも生命を繋ぎ、今も生きている限り、最も身近な一応な
哲学実践者である。
従って、見本手本として「敬う」と云う対象に含まれるのである。
親は只の親、子は只の子である。唯一の証は"血/遺伝子"だけである。
血こそが系譜であり歴史であり、全生命体との連鎖と、その記録である。
ところが、無意識下に置かれた重要な記録媒体を、個人の意思で引継または抹消出来る。
これこそが全人類に保障された "自由" と云うものだ。
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身体的特徴も自我の枠や拘束だと思う。「~でなければならない」社会常識もそうですが
これ等の枠を取り払っても、理知を保持する誠実さが有るならば、個人は順応する、意思決定する。
つまり、自我の一部である人間の "性" は自由度が高いことを意味する事の一つが
両性愛じゃないかと思う。
しかし、自由過ぎると崩壊する。与えられた性(XX,XY)という枠は、種族維持~子孫繁栄の
大規定から外れない為の、ささやかな枠だと思う。
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自己/自我を "なんとなく" とする人間が、思想/宗教/民族/倫理/道徳等の時代背景で共通する他に
同世代間の共通認識と云うものがある。
国状が似通うなら国境無関係に共通すると見る。
つまり深層意識下で共通する "なんとなく" の同調である。"なんとなく" は "なんとなく" 繋がるのである。
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貴方や私が何をして何を想うのか、なんて知り得ない。
見たり聞いたり触ったりしなければ分からない。
2m先で舞った埃を知覚することが出来ないのと同じように。
そういうことが地球上で起こっている中で、誰が「無知ではない」と言えるのか。
不理解は罵りである。愚かさを露見させて生きてはいけない。
罵るなら無知を自覚して、大威張りで罵りする自らを愉しもう
大賢者も大聖者も大権力者もピンもキリも死者も生者も、全ての衆生が
生生生生暗生始 死死死死冥死終 と唱えて当然だ。
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縁なき衆生は度し難し、と云う。仏教徒ではないから馬鹿、ではない。
関係もせず、知ろうともしない輩には何を言っても無駄と云うこと。
何故、イデオロギーに依る戦争を繰り返すのかは、縁ない衆生同士であるからだ。
己の馬鹿さは壁になる。対象に抱くマイナス印象が障壁になる。
これを自分で崩さないと(まず崩さないが)理解に至らない。
理解しないものを作ると、理知が欠如する。
好き/おもろい/楽しい/有益だけで世界は成立してない。
自分を世界に当て嵌めてみた時、世界が如何に自分と相性が悪いか分かるだろう。
つまり世界は、貴方や私と不相性である。また悪い相性の方が遥かに多い
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目に見える範囲で自分の思い通りにしようとするのが、そもそもおこがましい。
理不尽上等、格差当然、不平等然り、不公平仕方なし、不理解は世界中に、そして太古から。
思い通りじゃなくていい、生き生きしておけば、それで良い。
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