いい加減なテーマではないが。
既に引退されたタレント司会者の90^2003年迄の討論番組を視聴。
専門家や弁の立つ関係者を集めて行う番組は、懐かしかったり、時の流れを感じさせてくれる。
もう亡くなられた著名人が一同に会した光景に唸ることもあった。
さて、辛口で時にメディア(TV)を批判する意図もある─自己反省と防衛、反らし─討論番組は当時、主に深夜帯で盛んだった。いい歳したオジサン達がTV の中でワチャワチャ喋り勢いづく光景は、ハタチ前後の私には刺激もあれば眠いものだった記憶があり、聞きなれない話術づくしの中で青臭い私は大事な事を見 つけられなかった。
それを今になって見直すと、意外に滑稽な討論番組に終わったものが見えてくる。
ネットが一般的ではない時代の討論。
知識、情報の確証が各人の曖昧な記憶任せであり、そこを追求すると話が終わる。
それが論者同士の評価になっていき、話し掛け方が変わってくる。
即答して欲しいことを常に反らす専門者は気付くと都合の良いことを話しており、それが流れを変えていく。
討論に慣れていない世代、表に出てきた専門家たちの何と喋りの下手なこと、好奇と追求よりも
素直に敵意を表す人物たちに気付いた。
伝える、話し合う という難しさは普段のチャットでも、よく感じる。
この難しさは面倒なもので現状多くのものが口数を抑え雑多な呟き会話に落ち着く。
一応に話し尽くした後の余興、風な時期と思える。
雑多な呟きや愚痴の底にある、当人がどう考えどう感じたことを結果的に話し合う流れが良いが
ここまで行かず報告で終わると白ける。挨拶だけに尽きてしまう場になる訳。
言わんとすることが解る人物がいる。我慢強く話し合った賜物であるw
対人への第一印象(好き嫌い)で行動選択する人物の評価は非常に低い。
嫌い」なる感覚決定が優先的初期選択である場合、その人物は「自分に都合の良い環境でしか行動できない」人間と言える。
多種多様な個性に溢れる時代、当人だけの好き嫌いで区別するのは考えるまでも無く浅はか。
Aという問題を与えたら必ずBという答えだけしか出さない人間、つまり人物の思考回路が見えてくる。
こんな人物とは話す意味は無い。
そんなことはない!と意見しても、自分(の考え)を言葉に出来る者は非常に非常に少ない。
過去の討論番組から、相手が求める答えを率直簡潔に述べることで好意を得ること
また、対話姿勢について考えた一件。
ひろゆき&勝間の件も合わせて考えた次第、構えた番組でありながら「識者」と名乗る人物の程度は
意外に低く、あれは残念だった。
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