宣言に反して投稿。
生んだ罪、産む罪、生まれてしまった罪
個人の範疇に留めた前提で、誰かへ見せる為に、共有ツールを使って曝け出す意味も意義も既にネット上には無いと考え出している。「今を伝える」と云う宣伝文句に乗っかり大勢がそれまでに慎んでいた事柄(言い分 / 文句)を公けにする中で、こういう場から距離を置く人も少なくはない。物事の表裏に気付いた後の行動選択としては正しい。
日々の何らかのメモ帳と化した一方的発信であっても、また反対に有効且つ有益な媒介として使えていても、一点からすると大差はない。やるかやらないかの違いである。意味も意義も無い判断をした人なら異質さや距離感は掴める。但し、本来身を置く場が何処にあるか「ネットか現実」という古びた言い回しは関係無い。目前に在るものは全て現実だから。
せいぜい周囲数十キロまでは現実観を持てる。自分の生活行動半径に応じて拡がる景色と云う現実味に加え、接触した人間の数だけ現実感は拡がってみせる。経験した後に残る只の感覚が現実観となる。この程度でしかない。あとは想像力で補う。しかし、これも大方は自分の中で自分の為に使う。他所へ注いでみる事は苦痛であるから、従って「よく分らない、それぞれ好きにすればいい」と云う投げた回答を弾き出す者が多い。
昨今のツールは便利なので、ひと手間掛けて集めた情報を日々眺めるに留まる。最早、他人はフォルダでありサイトデザインや自律した自動発言アプリかも知れない。先んじた楽が後の想像力や探求心、思考を抑えていく。その都度に仕様変更するコンテンツでしかないから気分的な改善の為に起こる事であり、これで良いだろう。想像力は自分若しくは損益を共有する共存体程度には働くが、関係性の程度が低い分類個体、又は小規模且つ遠距離にある集合体には概ね働きは鈍くて最悪だ。サンプルとして思わず口走り一言が多い学者連がある。義務と責任では無く、あれは只の特性でしか無い様だ、なので対処が拙く、賛同される実行動はあっても、逐次発信する様は一見異常を帯びている。出来事によって文量と発信頻度が左右する。論理的であっても振れは大きいらしい。
1年も土を触れば指と手が土気を帯びる。日々の行動に適応し姿勢と型がシックリくる。これは傍目に判るものだ。しかし、こういう身体的変化も無く、過去の蓄積の延長上にあるロジックと特性だけで継続出来る挙句、特に変化の無い風体が今も其処に在るのなら、是等のツールを利用する意味は何なのだろうか。殆ど身に付かない一見自発的な行動は時間潰しや発散手段の、逃避又は快楽行為だ、と発信する事であるのだろう(これは随分馬鹿な感想として置く)。この行為自体が性格や特性、謂わば遺伝的且つ個性であるとする場合、この無駄にも思える行動に自責の念は幾分不要だろう、「蛙の子は蛙」であるから。
仮に現文明が永続するなら血族は概ね似た行動を取るだろうし、個体差が薄れ一様になる。流行の根底は共通している。正も善も利も徳も大事が起きなければ、そうは変わらない。自分の範疇から脱出出来ない、つまり他人の代わりは出来ないと云う低性能を個性で紛らわしている集合体だ。この限界性能を超える為には血族を変えてもいいだろう。思い込みや勘違いが大いに外向的影響を与える証明は成されているので、生まれの摩り替えは非常に効果的だ。
自分の不始末や不幸を血族に求める回答も間違いでは無いが、「しかし恨むべきは社会や現在では無く、まずは血脈である」とするケースが少ないのは、自己保存の本能が許さない御都合の良い因子が多い所為だ。この手の身勝手な因子は更に血の連鎖を求め遺伝的保存の愚行を実行する。双方又は片方の希望である形を帯びているが、実は無策の結果である妊娠先行の婚姻契約はこの例である。この関係下になる前段階にある条件「理想の人」と云う存在は、経過形成され束縛を帯びた現在の自己を援助し防衛する存在でもある。
理想は、つまり希望と欲望でしかない、こんな異性趣向の見聞は多い。言葉にならない波長や感覚にも利己的な本能は働いているが、そこに世間一様の損益勘定が、どうしても加算されている事に気付いているだろう。従って、ここから外れた、例えば「支援したい」と云う動機は少ないし、利害を無関係に感覚が正常働いたケースも勿論あるが、決まり程度の認識で契約成立させる中でも極めて政略戦略的な契約共同体は継続し難く、経済効率は悪化を辿る。こうなった時に体裁と必要構成上で存在する引継ぎ因子(子)は上位体の因子影響に無関係では無い。その時、蛙の因子が蛙の因子外の変異体では無いだろうからだ。養育と教育は継続していただろう、最悪の事態も引継ぎ因子は経験に刻んでしまう。こうなった因子は反動から反意的行動に出るが、本来の因子が形を変えたように見えるだけで反復作用を促す。右は右に、左は左へ、青は青に、白は白である。これに逆らうには断絶しかない。
断絶は意志であり他に理由は無い。経済面でも外見でもない。発生させてしまった既に存在している因子を消滅させるには、この現代の法規が許さない。時が時なら作業であったろうが、これを乗り越えてしまった理性が元で発生した悲劇も今には在る。これも罪なのだろうから、一部は生を罪として説かれるのかも知れない。発生させる側(親)も発生してしまった側(子)も罪を抱えているから、謝罪する理由を孕む存在なのだ。そして生まれてしまった矛盾の是正に一生を掛ける。
こうした罪人の因子が今を生きる人間の殆どだ。最終的に生理的嫌悪を得る接触に遭遇した際は、どの口が言う?でもなく、どの頭が言う?でもなく、どの血が言わせている?で良いかも知れない。嫌悪した個体の背後にある血族が、厭味を暴言を言わせる衝動を生み出し、この現在進行形の因子に動作させている。その悪因子の背後にある血族と血脈までが薄ら窺えてくる様になるなら、自分の背後にある血脈も持ち出してみよう。
随分馬鹿な話の中で感じ取れた全ての愚かさと矛盾が、こうして行動に現れる。嫌気に気付いた因子は富んだ環境でも継続を断ち始める。実数に現れる因子減少傾向が事実であり現実である。もしも先の要因が減少を促した理由ならば少しは贖罪として評価出来るだろう。決して悪い傾向では無い、にも関わらず今後も刷り込みで継続因子の発生を行ってみせようとする因子や、奨励する既存の因子には注意が必要である。継続する謂わば防衛を備え重ねる因子、血族は大罪なのですから。
0 件のコメント:
コメントを投稿