city personとかcity slickersとかhitkickerとか
「この田舎もんめが!」
という軽蔑は、住んでいる場所は無関係で、古くて自己都合まみれのモノに対する蔑み用法だったと思うが、そのままズバリ、都会人らしい人が地方人を侮辱するような単純な言い回しになっていることに少し驚いた。
都会と田舎は違いがあって当然で、結局はその土地で育まれた住民への要求とか居住資格に沿えるかどうかが活動の要旨となる。
集まった膨大な人間が創り上げた土地観、これこそが都会の持つ求心力であり地方人を惹き付ける。但し、これが単なる都合とか外見だけであってはいけない。未だ都会という外見、この憧れが含ませる想像や妄想は多い。
「そこへ行けばどうにかなる/あそこじゃなきゃ意味が無い」
の拠り所ではあるが、都会の求心力は経済性とか厳しさとか競争とかではなく、結局、呼ばれて居を構え、そうして切磋琢磨、練度、洗練を極める非凡な人達の功績に依る処がある。自分以上に自分を装えると云うステイタスが簡単に得られる訳だ。だが「そんな甘い考えこそ君がイナカモノである所以だ」と言われるだろう。
洗練さだけを問うなら別に都会で無くても良い、今はそう。
都会と名が付くだけの街になっている事に、案外住人は気付かない。それが単に安心と見え仮に都落ちした場合、落魄れた身の上に思う、詰らない感情には別段「都会と田舎の違い」は無い。場所が変わっても自分自身とか個性とか人格とか素性とか素質とか、特に変わらないから。恐らく何処に居ようと自分は自分である。「アソコに住んでた頃は良かった」なんて回想は、きっと過去の自画自賛とか美化でしかないだろう。
オマケついでに、もう一言。
他人へ何かしら従事に関する当の厳しさを口にする人は多い。例えば「この○○を甘く見るな」とか。ところが、これを言う当の人間は厳格でも無い。大方自己不満やストレスの捌け口として他人へ言い放っているだけだ。
本物は周りが勝手に素晴らしいと解釈し称賛する。無言の行動に周りが影響される。そのノリに乗れない問題は何かとか置いておいて、「キミの替わりは沢山いるんだ」と付け加えても、言ってる本人もこれに漏れない。ほんと優秀な集団でも替りの人間が幾らでもいる。
何をするかではなく何が出来るとか、呼ばれて赴く/縁があったなら幸いだが、自ら妄想して煌びやかな所へ乗り込むのは中々覚悟が要るだろう。これは決して勇気じゃない。「チャレンジャー」と言い換えたバカってことだ。
バカでも最期まで通せば必ず功績が残る。
痕跡を消すことはせず一切の足跡を永劫残すつもりでバカを行えば都会は受け入れる。珍しいものは、ホラいつだって話題になるだろう。
兎も角、場所を無関係に自己研鑽。
これを意識せず修練することで日々の足跡が軌跡となる。他人から見れば、この真摯な行動姿勢は綺麗/美しく見える。こゆこと。
どういうことだか
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