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どぅーしてココに着ちゃったの?!
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なんもかも大袈裟で伝わらない

「必死でやった・生きてきた」と言える根拠が解らない。
自分自身、勿論こう過ごした日々も幾年あったが喉元過ぎれば過去のこと。適当にやり過ごしたと自己解決し記憶の奥の奥底に仕舞い込んで忘れちまうんだから尚の事「必死」とか解らない。

口にした当人の必死さがどれ程のものなのか、又どんな必死な世界に生きているのかは実に様々だが、その身に迫まりくる必死さ(を与える状況とか怨念とか不遇)に、潰され切っていないのであれば、それは当人なりに適当にやり過ごしている事でもあるかと思う。「ヤバかったがやり過ごした」、この「ヤバかった」から「やり過ごした」間に、必死があったのだろうか。

「(ヤバイ!>必死キター!!)ヤバかったが(必死で)やり過ごした」、で宜しいか?

更に当人の必死とは、周囲にとっての時に迷惑の撒き散らし行為であり、平穏な人生に振って掛かる余計な不憫光景でもあり、わざわざ公的な問題として取り上げられる事は稀だ。身近な必死さは大方知られることもない希薄な事象である。従って「必死」を口にすることは中々の自己褒章でしかない。

とは云っても当事者としてはその時点で自分の生死を天秤に掛けている。
しかし危機感を煽る喪失の中身は生死/命のやり取りではなく、肩書き/立場といった世間体と経済性の問題でしかないものも多い。尚更、「他所は他所、他人は他人、自分が選んだ自分の人生なんだから」。こんな訳で他人には当事者の必死さなんて伝わらない。
自分と他大多数、必死と適宣適当。実に、相手の状況を理解するのは難しい。

先の混迷を経験しても、尚再び適当な関係が見掛けられる様になったご時勢。
この適当な上っ面関係化が再び社会批判の一端に含まれ、口にされるかも知れないし、少年少女たちの心を蝕む小さな賑わいになっていくかも知れない。

適度は非常に馬鹿らしいけれど、そうした中でも親身は存在する。
その違いも理由も判別が付き難い為、余計なお世話と適弁に思えるのも仕方のないことだ。物理的に心理的、価値も環境も違う距離関係で、少し親身になったとて、「吹っ掛けられた」と受け取った方は面倒にしか取らない。こういう相手先の心理動向も伺いながら承知して尚且つ恥を忍んだ上で、一時的親身懇切を解いたとて余り意味は無いのだろう。そして、こう解釈し置く事も単なる自賛であり壮大な適当であるのだろう。09:55

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