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宮崎駿監督引退記者会見の文字起こし特集 ~パヤオ信者にとって一番長い夏~

ANNnewsCH ~ 宮崎駿監督の引退記者会見ノーカット(13/09/06)

動画URL: http://www.youtube.com/watch?v=GP8f3Sxd8ug&feature=c4-overview-vl&list=PLKeSkVQhqoOqTbbypfz4zEV9LMmsV5GIw

以下、ほぼ全文文字起こしページを紹介
マイナビ|宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし
http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/index.html
NHKNEWSweb|宮崎駿監督 引退会見(1)「僕は自由です」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130906/k10014356461000.html
価格.comマガジン|スタジオジブリ「宮崎駿監督引退会見」(ほぼ)全容レポート
http://magazine.kakaku.com/mag/hobby/id=1319/
Gigazine|スタジオジブリの宮崎駿監督が引退記者会見を実施、ネットでは生中継も
http://gigazine.net/news/20130906-hayao-miyazaki-retire/

マイナビさんの記事が会見発言に忠実な文字起こし記事となっています。
先ず宮崎駿監督の「公式引退の辞」。全文は次の通り(会見中に言う"引退の辞"は以下の内容を指す)。

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。
もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。
ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。
“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か…それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果たされてしまいます。
長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること―例えばジブリ美術館の展示―も課題は山ほどあります。
これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。
それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。
ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。
ありがとうございました。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK06030_W3A900C1000000/

遅ればせながら(誰からも要望されたことではありませんが)私も文字お越しをしましたので宜しければドウゾ。

忠実な文字起こしをされたマイナビさんと非常に似通ってますので、先ず上記リンクをクリックすることをオススメしますがw

質問人の名称や誤字の確認で参考にさせて貰ったのは、最初に文字起こし記事を掲載された Gigazine さんです。助かりました有難うございました。

俺的字幕なので前置き
  • 繋ぎ言葉(あのう~・・・) を入れました
  • (笑)を入れました
  • 心境や内心の表現は (( )) を使用
  • 補足は注釈を設けず文中の該当する単語直後に括弧()で記載

 です。

場所:東京・吉祥寺第一ホテル
株式会社スタジオジブリより3名が出席。左から順に(敬称略)、鈴木敏夫(代表取締役)、 宮崎駿(取締役)、 星野康二(代表取締役社長)※星野社長が司会進行役。





星野社長:
それでは宮崎監督、ご挨拶をお願い致します。

宮崎監督:
あのう─、公式引退の辞という(苦笑)、僕は"公式"まで添えなくてもいいと思ったんですけども、そのメモを皆さんにコピーしてお渡ししてありますので、質問をして頂ければ何でも答えるという形で、ご挨拶にしたいと思うんですが一言。えぇ、僕は何度も「もう辞める」と今まで言って、騒ぎを起こしてきた人間なので、「どうせまた(同じ)だろう?」と思われているのですけど、これは‥あの‥今回は‥本気です(笑・本人/会場)
で、プロデューサーに代わります。

鈴木敏夫プロデューサー(以下、鈴木P):
お早う御座います。一杯お集まり頂きましてありがとう御座います。まぁ、始まったものはですね、必ず終わりが来ると、そういうものだと思います。で、僕の立場で言うとですね、何と言うんですか"落魄れて"、それで引退するのは格好悪いと思ってましたので。丁度今この"風立ちぬ"という映画が公開されていて、色んな方に支持されている時にですね、こういう事を決めた。そういう事(機会)でいうと、「良かったんじゃないかな」そんな風に思っております。
それと皆さん もう一つ。─「今後ジブリは、どうなっていくんだろう?」と、当然その事にですね、疑問を持たれると思います。現在皆さん御承知だと思います、この11月23日に公開の高畑勲監督の "かぐや姫の物語"、皆さんにご心配をお掛けしましたけれど鋭意製作中、大体目途も見えてきましたので11月23日に必ず公開することを皆さんへお伝えしたいと思います。引き続きましてですね、これまだ企画その他は発表出来ないんですけれど(2014)来年の夏を目指して現在 もう一本 映画を製作中であると、この二つを皆さんへお伝えしたいと思いました。
ということで僕の挨拶にさせて頂きます。

星野社長:
それではここからマスコミの皆様からの質問を受け付けたいと思います。今日はジックリ時間を取ってシッカリお答えしたいという状況ですので、順に手を挙げて頂いて私が指名する形で進めさせて頂ければと思います。では質問ある方は挙手をお願い致します。

~これより質疑応答~


朝日小学生新聞:
引退報道を受けて、子供たちからも沢山「ありがとう」ですとか「監督やめないで」との言葉が沢山届いています。いま監督から子供たちへ伝いたいこと、メッセージを頂けますでしょうか?

宮崎監督:
んんー……。あの、そんなに格好良いことは言えません。何か機会があったら、私達が作ってきた映画を見て下されば何か伝わってくれるかも知れません。それに留めさせて下さい。


読売新聞:
引退の辞を読ませて頂きましたが、長編の監督をお辞めになるという理解でよろしいでしょうか?また、これからやっていきたいと思っていることを、いま少し具体的に教えて頂ければと思います。

宮崎監督:
我ながら「良く書いたな」と思ったんですけれど(引退の辞に)、「僕は自由です」って(笑)書いてありますから、「やらない自由」もあるんです。但、車が運転できる限りは、毎日アトリエに行こうと思ってます。それで、やりたくなった物事や やれる物はやろうと思います。あの、んんー‥、まだ休息を取らなければいけない時期なので休んでいる内に色々分ってくるだろうと思うんですが、ここ(何か)約束すると、大抵破ることになると思いますので、そういうことでご理解下さい(笑)


インターネットメディア IWJ:
1984年公開の「風の谷のナウシカ」ですが、続編をこの先作られる予定、お考えは御座いますでしょうか?

宮崎監督:
それはありません。
(断言して軽く一礼)


韓国KBS:
韓国に一杯監督のファンが居ると思います、私もその一人です。韓国のファンに一言お願いします。また、韓国で話題(批判)になっている零戦(零式戦闘機)について、どういったお考えをお持ちですか?

宮崎監督:
あの‥映画を、見ていただければ分かると(笑)思っていますので、色々な言葉に邪魔されないで今度の映画を見て頂けたら良いな、と思います。
(それを韓国のファンにも?)
えぇ、それを今 韓国の方に(苦笑)。色んな国の方々が私達の作品を見て下さっていることは非常に嬉しいと思っています。それと同時に、「風立ちぬ」の作品のモチーフそのものが日本の軍国主義が破滅に向かっていく時代を舞台にしていますので、色々な疑問は私の家族からも自分自身からもスタッフからも出ました。それにどういう風に答えるかということで映画を作りました。ですから、映画を見て頂ければと思います。映画を見ないで論じても殆ど始まらないと思いますので是非お金を払って見て頂けると(会場から笑い)嬉しいなと思います(笑)。


朝日新聞:
今後ジブリの若手監督の作品に、例えば監修、アドバイザー、アイデア提供、脚本を書くとか、いった形で関与するお考えはあるのでしょうか?

宮崎監督:
ありません。(笑い)


フジテレビ~アゲるテレビ:
「今回(の引退)は本気です」ということですが、今回と今迄とでは何が一番大きく違うのでしょうか?

宮崎監督:
(困惑して)あのう‥、この "公式引退の辞"に書いて在りますけども、 "風立ちぬ"は "~ポニョ"から5年掛かってるんです。勿論その間(中)映画を作り続けた訳ではなくて、シナリオを書いたり道楽の漫画を描いたりとか或いは美術館の短編をやるとか色んな事をやっていますが、やはり5年掛かるんです。今(後)、次の作品を考え始めますと多分、5年じゃ済まないでしょうね此の年齢ですから。そうするとここ(引退の辞)にも書いて在りますけども、次は6年掛かるか7年掛かるか。あと三ヶ月もすれば私は73になりますから、そこから7年掛かると80歳になってしまうんです。僕は、この前お会いした文藝春秋の元編集長だった半藤一利さんとお話してですね、その方は83歳でしたが本当に背筋は伸びて頭もハッキリしていてですね、本当に良い先輩がいるなと。僕も83になって こうなってたら良いなと思うもんですから「"あと10年"は仕事を続けます」と言っているだけでして、続けられたら良いなと思いますが、今までの延長上には(これからの)自分の仕事はないだろうと思っています。そういうことで僕の長編アニメーションの時代はハッキリ「終わったんだ」という風に。もし(今後)自分が「やりたい」と思っても、それは年寄りの世迷い言であるという風に片付けようと決めています。


週刊SPA!:
引退を鈴木さんとで正式に決めたタイミングはいつで、どのような会話をされたのでしょうか?

宮崎監督:
よく覚えてないですけど、「鈴木さん、もうダメだ」と僕は言った事があります(笑)。そしたら鈴木さんが「そうですか」とか言ったんです(笑)。これ何度もやってきたことなので、その時に鈴木さんが信用したかどうか分かりませんが。スタジオジブリを起ち上げた時、こんなに長く続ける気がなかったのは確かです。ですから何度も「もう引き時なんじゃないか?」とか「止めよう」という話は二人でしてきたので、えぇと今回は本当に「次は7年掛かるかも知れない」というもの(一文)に鈴木さんもリアリティを感じたんだと思います。そういう事で。答えになってますかね?

鈴木:
あの‥僕もですね、正確に覚えている訳じゃないんですけれど、"風立ちぬ" の初号(試写)が在ったのは 6月19日なんです、多分その直後だったと思うんです。それで宮さん(宮崎監督)の方から、そういう(引き時の)話があった時、確かにこれまでも色んな作品で「これが最後だ」って、「これが最後だと思ってやっている」という話の仕方が在ったんです、けれど(6/19)その時の具体的な言葉は忘れましたけれど今回は(ちょっと本気だな)って事をですね、僕も感じざるを得ませんでした。というのは、僕自身がナウシカ(の制作)から数えると今年が丁度30年目に当たるんですが、その間にほんと色々ありました、ジブリを続けていく間で。いま宮さんも言ったように「これ以上やるのはよくないんじゃないか?」ってことで止めようか止めまいかとか‥色んな話が在ったんですけれどもね、今回は僕もですね何て言うのかな、ずっと30年間、謂ってみれば多分 緊張の糸がずうっと在ったと思うんですよ。この緊張の糸が、宮さんに(引き時の件を)言われた時、少し揺れたんですよ。別の言い方をするとね、僕自身ヘンな言い方ですけど、少しホッとするみたいなところがあったんですよ。(二人共苦笑)だからね、僕はね(笑)まぁね若い時だったらね、それ(引き時)を留めさせようとか色々な気持ちが働いたと思うんですけれども、自分の気持ちの中で何と言うか格好付けなんですが、「本当にご苦労様でした」という気分が湧いた。そういう事(気持ち)もあるような気がするんです。但し僕自身は今も引き続き "かぐや姫の物語" を公開しなければいけないので、その途切れ掛かった(緊張の)糸をもう一回縛ったりして現在 仕事をしている最中なんですけれど。
それで実は、細かい所まで話しますと、(今回)皆さんへお伝えする前に何時どのように行うかを話し合いました。その中で、皆さんにお伝えする前に先ず(この件を)言わなければいけないのは、やっぱりスタジオジブリで働くスタッフに対してだと思ったんです。これをいつやって、いつ皆さんに伝えるか。丁度ね "風立ちぬ"の公開がありましたのでね、僕として映画の公開前に(映画が出来て直ぐ)「引退だ」なんてことを発表したら、これは話がややこしくなると思ったのです。だから映画を公開して落ち着いた時期 ─実は社内では8月5日に皆(スタッフ)に伝えました─ そして公開が一段落した時期に多分(皆さんにも発表できるかな?)と。色々考えたんですけれど、時期としてはそうすると9月の頭ですよね。そのように考えたのは確かです、はい。


台湾 中国新聞社:
台湾の観光客が日本旅行すると必ず三鷹の森ジブリ美術館へ行く程そこは観光名所です。ですから台湾のファンは監督の引退を凄く残念がる声があります。引退後は時間に余裕が出来るので海外旅行を兼ね海外ファンとの交流を設ける予定はありますか?

宮崎監督:
いえ、あの‥ジブリ美術館の展示その他について、私は関わらせて貰いたいと思ってますので、ボランティアという形になるかも知れませんが、自分も展示品になっちゃうかも知れませんので(含笑/会場笑)、是非美術館の方にお越し頂けた方が嬉しいんです。


週刊誌AERA:
まず鈴木さんには「風立ちぬ」を進めた段階で、これが最後になると予感するところはありましたか?ポニョの時点で「宮崎監督を終わらせたくない」という思いはありましたか?また宮崎監督には「風立ちぬ」を最後にすることで監督なりの引き際の美学などありますか?

鈴木:
えーっ‥とー‥、"風立ちぬ" が最後になるかもしれないという予感はあったのか?という質問だと思いますが、僕は宮崎駿監督~宮さんという人と付き合ってきて、彼の性格からして一つ思っていたことは ((ずっと作り続けるんじゃないか?)) と、そう思っていました。「作り続ける」とは多分死んでしまうまで、その間際まで作り続けるんじゃないか、全てをやるのは不可能かも知れないけれど何らかの形で映画を作り続ける、という予感の一方で、宮さんという人は僕は35年付き合ってきて感じてたんですけど、別のことをやろうって時に自分で一旦決めて宣言する人なんですよ。だから、もしかしたらこれを最後と決めて宣言して別のことに取り掛かる。そのどっちかだろうと正直思ってましたね。そして "風立ちぬ"を作って完成を迎え、その直後に正に先に言った話が出てきたんですけれど、それは僕の予想にあったので、だから素直に受け留める事が出来たっていうんですかね、多分こういう事だと思います。

宮崎監督:
映画を作るのに死に物狂いで、その後どうするかは考えてなかったですね。それよりも映画に出来るのかって‥これ(風立ちぬ)は映画に出来るのか?とか作るのに値するものなのか?という事が方が自分にとって重圧でした。


ロシア国営テレビ:
宮崎監督は以前のインタビューで、外国のアニメ作家から影響を受けたと語っていました。その影響を与えた方にロシアのユーリ・ノルシュテイン監督もいるので、その影響についてもっと詳しく教えて下さい。

宮崎監督:
ノルシュテイン監督にどういう影響を受けたかという質問だと思いますが、ノルシュテインは友人です。「負けてたまるか!」という相手で御座いまして。それ程じゃないでして(冗談)。彼はずっと「外套(シリーズ)」を作っていますね、ああいう生き方も一つの生き方だと思います。実はココに「高畑監督も一緒に出ないか?」って僕は誘ったんですけど、冗談ではないという様な顔で断られまして、私は ((彼はずっとやる気だな))と思ってますが。(一同笑)


読売新聞:
宮崎監督、これまで多くの作品を作ってきて、敢えて最も思い入れのある作品を挙げるならどれですか?また全作品を通じて一貫したメッセージがあれば教えてください。

宮崎監督:
うーん‥一番トゲのように残っているのは「ハウルの動く城」です。ゲームの世界なんです。でも、それをゲームではなくドラマにしようとした結果、本当に格闘しましたが、スタートが間違ってたと思うんですけど(苦笑)、自分が立てた企画だから仕方がありません。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けて、この世界(業界)に入った人間ですので、今は児童書にも色々ありますけれど基本的に、子供達に「この世は生きるに値するんだ」というのを伝えるのが自分達の仕事の根幹になければいけないと思ってきました。それは今も変わっていません。


イタリア ANSA通信社:
監督はイタリアを舞台にした作品を色々お作りですが、イタリアが好きだからでしょうか?またこの会見への私の感想ですが、半藤さんは83歳でご立派ですが日野原(重明-聖路加国際病院理事長)先生を目標にされたらすればあと20~30年生きられるので、その方が宜しいかと思いますよ(会場笑)。もう一つ、ジブリ美術館は監督が館長をやると来館者から喜ばれると思います。

宮崎監督:
僕は、イタリアは好きです。まとまってないところも含めて好きです。それから、友人もいるし、食べ物も美味しいし、女性は綺麗だし、でもちょっとおっかないかなという気もしますが思いますが‥イタリアは好きです。(なんでしたっけ?もう一つ、鈴木Pへ)いやいや、いま半藤さんのところ(域)に10年経てば辿り着けるのか、その間仕事を続けられたらいいなと思っているということで、それ以上を望むのは。半藤さんがあと何年頑張って下さるか判りませんから。半藤さんは僕より10年も前を歩いてるんで、半藤さんがずっと(前を)歩いて行って欲しいと思っています。それから(美術館の)館長になって入り口で「いらっしゃいませ」と言っているよりは、展示品がもう10年以上前に描いたのものなので随分と色褪せたり描き直さなきゃいけない物がありまして、それを僕はやりたいと思ってるんです。これは本当に自分が筆で描いたり、ペンで描いたりしなきゃいけないものなので、それは、是非、時間が出来ればやりたいと、ずっとやらなければいけないと思っていたことなので、それをやりたいんです。美術館の展示品というのは毎日掃除してキチンとしてる筈なのに、いつの間にか色褪せていくんですよね。その部屋に入った時に全体がくすんで見えるんです。くすんで見える所を一ヶ所キラキラさせると、そのコーナーがパッと甦って。不思議な事にですね、忽(たちま)ちそこに子供達が群がるようになると解ったんです。ですから、美術館みたいなモノも活き活きさせていくには、ずっと手を掛け続けなければいけない事は確かなので、これを出来るだけやりたいと思っています。以上で宜しいでしょうか? はい。 


映画ライター カナザワ:
宮崎監督、長編アニメの監督の引退ということですが、美術館に関していえば短編アニメーションを監督されています。これを展示の一環と考えると短編アニメに関わることは有るのか?もう一点は鈴木さん、元々スタジオジブリは宮崎~高畑勲監督の作品を作る為の会社だと思います。来年用の新作があるようですが、お二人のうち高畑さんまでも今度の作品(かぐや姫)が「自分の最後にして最高傑作になるかも知れない」と発言している訳です。ここで宮崎さんも高畑さんも一線を退くと今後ジブリはどうなるのか?

宮崎監督:
引退の辞に書きましたように、僕は自由です。やってもやらなくても自由なんで、今そちらに頭を使うことはしません。前からやりたかった事があるもんですからソッチをやろうと、取敢えずは。それはアニメーションではありません。

鈴木P:
二つ目のご質問ですが、「ジブリはこれからどうするんだ?」って意味だと思いますが、先ほども申しました繰り返しますけれど、この "かぐや姫の物語の"の後、来年の企画に関わっています。僕も実は年齢が、宮さんより若いですけど、現状65歳でして、このじじいが一体どこまで関わるかという問題もあると思うんですけれどもね。実は今後のジブリの問題は、今ジブリにいる人達の問題でもあると思うんです。その人達がどう考えるのか、それによって決まるんだと僕は思っています。

宮崎監督:
あの、ジブリの今後についてですが、やっと上の重しがなくなるんだから「こういうものをやらせろ」という声が若いスタッフから色々と鈴木さんに届くのを僕は願っていますけどね本当に。それがない時(場合)はダメですよね、鈴木さんが何やっても。それです。僕らは30歳の時にも40歳の時にも「やっていいんだったら何でもやるぞ」って覚悟で色んな企画を抱えていました。それを持っているかどうかに係っていると思います。あの、それに対して鈴木さんは門前払いを喰らわせる人ではありません。ということで今後の事は色んな人間の意欲や希望や能力に係っているのだと思います。


サンデー毎日:
"風立ちぬ" が長編作品の最後になりましたが、他にも「これはやってみたかった」長編、やらずに終わった企画などはありますか?

宮崎監督:
ホントに山ほどあるんですけれど、やっぱりやってはいけない理由があったからやらなかったことなので、今ここで述べようもないモノで、それほどに形にならなかったモノばかりです。辞めると言いながら「こういうものをやったらどうなんだろう?」というもの(思案)は初中後(しょっちゅう)頭の中で出たり入ったりしますけど、それは人に語るものではありませんので、ご勘弁下さい。


フジテレビ とくダネ!:
先の質問に返し「僕は自由です、やりたいことがあります」と仰いましたが、具体的に詳しくどういうものか?また宮崎監督は日本から海外へ色んなことを発信できた貴重な方です。別の形で発信する予定はあるのか?

宮崎監督:
やりたいことがあるんですけど、やれなかったら見っともないから言いません。(会場笑)それから僕は、んー‥文化人になりたくないんです。僕は町工場のオヤジで。それは貫きたいと思ってます。だから、発信しようとかそういう事は余り考えない。はい。文化人ではありません。


テレビ朝日:
宮崎監督に質問です。当面は休息を優先すると思ってよいのでしょうか?また最新作 "風立ちぬ"を映画館で観て、監督の東日本大震災や原発事故についての発言も拝見しました。震災や事故で感じたことが最新作を作るにあたって与えた影響などあれば教えてください。

宮崎監督:
"風立ちぬ" の構想は震災や原発の事故に影響されていません。それ(構想)は、この映画を始める時に初めからあったものです。何処かで話しましたけれど、時代に追いつかれて追い抜かれたという感じを映画を作りながら思いました。それから、僕の休息は他人から見ると休息に見えないかも知れない様な休息でして、仕事を、好き勝手な事をやっているとそれが大変でも、それが休息になる事も随分あるので、只ゴロっと寝寝転がっていると反って草臥れるだけなんで‥。まぁ、夢としては、出来ないと思いますけど東山道を歩いて京都まで歩けたらいいなぁと思ったりするんですけど、途中で行き倒れになる可能性の方が強いのです。それを時々夢見ますけど、多分実現不可能だと思います。


朝日新聞:
今のお答えで "風立ちぬ"で「時代に追いつかれ、追い抜かれた」とのことですが、それと引退とは関係がありますか?

宮崎監督:
関係ありません。アニメーション監督ってのは何やってるかってのは、皆さんよく解らない事だと思うんですけれど、アニメーション監督と(一口に)言っても皆それぞれ仕事のやり方は違います。僕はアニメーター出身なもので、描かなきゃいけないんです。描かないと表現出来ないので、そうするとどういう事が起きるかと云うと、こうメガネを外してですね、(実演)こうやって描かなきゃいけないのです。(笑)これを延々やっていかなきゃいけないんですけど、どんなに体調を整えて節制していても、集中する時間が年々減っていく事は確実なんです。もう実感しています。例えばポニョの時に比べると僕は机を離れるのが30分早くなっています。この次が更に1時間早くなるんだろうと、こう。その物理的な加齢に依って発生する問題はどうする事も出来ませんし、それで苛立っても仕方がないんですね。「では違うやり方をすればいいじゃないか」っていう意見があると思いますが、それが出来るならとっくにやっておりますから、出来ません。と云う訳で、僕は僕のやり方で自分の一代を貫くしかないと思いますので、長編アニメーションは無理だって判断をしたんです。宜しいでしょうか?


フリーランス 清水:
"カリオストロの城" から始まり "風立ちぬ" で終わるフィルモグラフィになりますが、何かを壊して世界を変えようとして映画を作ってこられたと思いますが、いま自称クールジャパンと呼ばれる日本アニメーション世界があります。どのようにご覧になっていますか?

宮崎監督:
誠に申し訳ないんですけども、私が仕事をやるということは一切映画もテレビも見ない生活をするということです。ラジオだけ、朝ちょっと聞きます。新聞をパラパラっと見ますが、あとは全く見てません。驚くほど見てないんです。ですから、ジャパニメーションがどこにあるのかすら分りません。これ、ホントに分らないんです。で、予断で話すわけにはいきませんから、それに対する発言権は僕にはないと思います。皆さんも私の年齢になって私と同じくデスクワークをやってみたら分ると思いますが、そういう気を散らすことは一切できないんです。(苦笑)参考試写として、スタジオの試写室で何本か映画をやって下さるんですけど、大抵途中で出てきます。「仕事をやった方が良い」と思って。そういう不遜な人間なので。まぁー、今がシオ(潮時)だなと思います(笑)。


時事通信:
引退宣言ということで、過去の映画監督は引退宣言をせずに身を引かれた人もいるが、敢えてここで引退宣言しようと思われた最大の理由は何か?

宮崎監督:
引退宣言をしようと思ったんじゃないんです。僕はスタッフに「辞めます」と言いました。その結果、プロデューサーから「それに関して色んな取材の申し入れがあるけど、どうするか?」と「一々受けてたら大変ですよ」との話がありまして、「じゃあ僕のアトリエでやりましょうか」って申し入れをしたらですね、「ちょっと人数が多くて入り切らない」って話になりまして、じゃあスタジオの5スタって会議室がありますので「ソコでやりましょうか?」って言ったら、「ソコもどうも難しい」って話になって、でココになっちゃったんです。そうするとですね、これは何か無いと、口先だけで誤魔化してる訳にはいかないので、"公式引退の辞"を書いたんです。それをプロデューサーに見せたら「これ良いじゃない」って言うので「じゃあコピーして下さい」って(笑)それでこういう事になりまして。こんなイベントをやる気は更々なかったんです。そのへんご理解下さい(笑)


AFP通信:
プロデューサーと監督お二人に伺います。宮崎作品は商業的成功と芸術性の評価と両方収めたが、宮崎作品のスタイルをプロデューサーから改めて表現していただけませんか?また宮崎映画が日本映画に及ぼした影響について評価や解説などのコメントをいただけますか?

鈴木P:
何て言うんだろうコレ、言い訳かもしれないけれど、そういうこと僕あんまり考えないようにしています。どうしてかというと、そのようにモノを見ていくと目の前の仕事が出来なくなるんですよ。だから僕は現実に宮崎作品に関わったのはナウシカからですが、そこから先ほど申し上げたように約30年間ずっと走り続けてきて、同時に過去作品を振り返ったことはなかったんですよ。それが多分 仕事を現役で続けるって事だと僕は思ってたんですよね。だから、どういうスタイルで映画を作っているのか、ふと自分の感想として想う事はありますけれど、なるべくそういうことは封じる。尚且つ自分たちが関わって作ってきた作品が世間にどういう影響を与えたのか、それも僕は、実はあまり考えないようにしていました。これがお答えになるかどうか。そういうことです。

宮崎監督:
まったく、僕も考えていませんでした。「採算分岐点に辿り着いた」と聞いたら「よかった」と。それで大体終わりです(二人共に笑)


フランスTV:
先ほどイタリアは好きだとのことでしたが、フランスはいかがでしょうか?(会場笑)

宮崎監督:
(笑) 正直に言いますね、イタリア料理の方が口に合います(笑) クリスマスにたまたまフランスにちょっと用事があって行った時、どこのレストランへ行ってもフォアグラが出てくるんです。もうこれは辛かったなぁって記憶があるんですけど(苦笑)はい。それ答えになってません?(口添えがあって) あ!ルーブルは良かったですよ。良い所はいっぱいあります。ありますけど、料理はイタリアの方が好きだっていう(笑) あの、そんな大した問題だって思わないで下さい(笑)。フランスの友人に「イタリアの飛行艇じゃなくフランスの飛行艇映画を作れ」と言われたんですけど、「アドリア海だからフランスの飛行艇はないだろう」という話をした記憶がありますけど。フランスはポール・グリモーという人が今は「王と鳥(Le Roi et l'Oiseau)」になってますが、昔は「やぶにらみの暴君(La Bergere et le Ramoneur)」という形で、完成形ではなかったけれども、日本で 1950年代に公開されて甚大な影響を与えたんです。特に僕より5つ上の先輩の高畑監督の世代に圧倒的影響を与えた作品です。ポール・グリモーって人です。それは僕らは少しも忘れていません。今見ても志や世界の創り方には本当に感動します。幾つかの作品がキッカケになって自分はアニメーターをやっていこうと決めた訳ですから、その時にフランスで作られた映画の方が遥かに大きな影響を与えています。イタリアで作られた作品もあるんですけど、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません(笑)


共同通信:
監督お疲れ様でした。1963年に東映動画入社されて丁度半世紀、来日もアニメの事を考えて毎日紙に向って描いてこられましたが、振り返って一番辛かったなということ、アニメを作って良かったなということ、教えて下さい。

宮崎監督:
辛かったのは本当にもうスケジュールで、どの作品も辛かったです。それから、終わりまで分っている作品は作ったことがないんです。つまり、収まっていく見通しが無いまま(製作に)入る作品ばかりだったので毎回物凄く辛かったです。「辛かった」としか言いようが無いんですけど。最後まで見通せる作品は僕がやらなくてもいいと勝手に思い込んで企画を立てたりシナリオを書いたりしました。
‥絵コンテって作業があるんですけど、まるで新聞連載のように絵コンテを描いているという、いや新聞連載程せっせとやってませんね、月刊誌みたいな感じで絵コンテを出す。スタッフはこの映画が何処に辿り着くか全然分からないままにやってるんです。よくまぁ我慢してやってくれたなと思うんですけど。そういうことが自分にとってはしんどかった事です。でも、その2年とか1年半とか、時間(日程)の間に考えることが自分にとって意味がありました。同時に、そうして(仕)上がってくるカットを見て、ああではないこうではないと自分で弄っていく過程で以前より映画の内容について自分の理解が深まることも事実なので。それによって、その先(収まり)が考えられる、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけれど。それは、辛いんですよね。とぼとぼスタジオにやって来る日々になってしまうんです。50年のうち何年そうだったのか分りませんが、こういう仕事でした。
(アニメを作って良かったなという事にもお願いします)
監督になって良かったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになって良かったと思ったことは何度かあります。
(具体的には?)
アニメーター(という職人)は何でもないカットが描けたとか、上手く風が描けたとか、上手く水の処理ができたとか、光の差し方が上手くいったとか、そういうことで2~3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間位は幸せになれます。監督はね、最後に判決を待たなければいけないでしょ?‥これは胃に良くないんです。ですから、アニメーターの時(代)に、最後までアニメーターをやってたつもりでしたけれど、アニメーターという職業は自分に合ってる良い職業だったと思ってます。


朝日新聞:
今のお答えについてですが、それでも監督を続けてきたのはどうしてですか?

宮崎監督:
簡単な理由でして。高畑勲とは会社が組ませたんじゃないんです。僕らは労働組合の事務所で出会って、随分長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでどれほど話をしたか 分からない位に有りと有らゆる話をしてきました。最初に組んでやった仕事は、まぁ話しても仕方がありませんが、自分がそれなりの力を持って彼と一緒に出来たのは "(アルプスの少女)ハイジ"が最初だったと思います。その時、全く打ち合わせが必要ない人間になってたんです、双方。「こういうものをやる」って出した途端に何考えてるか解る人間になっちゃったんです。監督はスケジュールが遅れると会社に呼び出されて怒られる、高畑勲は始末書を幾らでも書いていましたけど、それを見るにつけ僕は「監督はやりたくない、やる必要は無い、僕は映像の方をやってればいいんだ」と思ってました。況してや音楽や何やら彼やら全然。修業もしなければ何もやらない(笑)そういう人間でしたから。ある時期がきて「お前一人で演出をやれ」って言われたとき本当に途方に暮れたんです。「音楽家と打ち合わせ」なんて言われてもね、何を打ち合わせていいか解らない。「宜しく」って言うしかないんで。しかも先も言いましたように「このストーリーはその後どうなっていくんですか?」と訊かれても「僕も判りません」と云うしかないので。つまり始めから監督や演出をやろうと思っていた人間じゃなかったんです。それ(いう人間)がやったんで途中パクさんに‥高畑監督に助けて貰った事もあります。その戸惑いは風立ちぬまでずっと引きずってやってきたと、僕は今でも思ってますけどもね。音楽の打ち合わせで「これどうですか?」と聴かされてもですね、「‥どこかで聴いたことがあるな」とかそれ位の事しか思い付かないんで(笑)。逆に「このCD、僕がとても気に入ってるんですけどコレじゃいけませんか?」と言ったら「これ、ワーグナーじゃないですか」とか、そういうバカな話は幾らでもあるんです。
映画の演出をやろうと思ってやってきたパクさんの修行と、絵を描けばいいんだと思っていた僕の修行とは全然違うものだったんです。監督をやってる間も僕はアニメーターとしてやりましたので(周りから)多くの助けや(周りから見て)頓珍漢が一杯あったと思うんですが、それはプロデューサーが随分と補佐をしてくれました。つまりテレビも映画も見ない人間にとってはどういうタレントがいるのかも何も知らないんです。で、直ぐに忘れるんです僕は。ですから「チームと云うか腐れ縁と云うか、あったお陰でやれてこれたんだ」と本当に思います。決然と立って孤高を保っている監督では全然なかったです。分んないものは分んないと、そういう人間として最後までやれたんだと思います。

(もう一つ、高畑さんの名前が出ましたので、"かぐや姫の物語"を少しはご覧になられたと‥)

宮崎監督:
いや全然見てません。

(そうですか)

宮崎監督:
今日ここに一緒に並ぼうよと僕は持ち掛けた、先も言ったんですけど、(高畑監督は)「いやいやいや‥」って。あの(彼は)まだまだやる気だなって思ってます(笑)


週刊新潮:
"風立ちぬ" についてもう少し。長編最後の作品である "風立ちぬ"で最後の場面の台詞を「あなた、きて」から「あなた、生きて」に変えたと鈴木プロデューサーが以前お話していました。監督が考えていたものと違う台詞になったと思いますが、これに悔いはありませんか?この変更についてどう思っていますか?

宮崎監督:
"風立ちぬ" の最後については本当に煩悶しました。なぜ煩悶したかというと兎に角 絵コンテを上げないと制作デスクのサンキチが、サンキチ(三吉弓子)という女の子がいるんですけど今産休を取ってますが、ほんとに、ほんとに怖ろしいんです。他のスタッフの所へ行って話していると床に「10分にして下さい」と貼ってあるとかね、(会場笑) 机の中に叱咤激励が貼ってありまして、そんな事はどうでもいいんですけど(笑)、兎に角 絵コンテを形にしない事にはどうにもならない、で色々とペンディング(保留)事項があるけど兎に角 形にしようって追い詰められたのが実態です。それで「やっぱりダメだな」と思いながらその時間に、つまり絵が描かれてしまっても台詞は変えられますから、その時間に自分で冷静になって仕切り直しをしたんです。僕は、こんな事を話しても仕方が無いですけど、((あの最後の草原は一体何所なんだろう?)) って ((これは煉獄である)) って仮説を立てたんです。ということはカプローニも堀越二郎も亡くなって其処で再会してるんだってという風に、そういう風に思ったんです。それで ((菜穂子はベアトリーチェだ、だから「迷わないでこちらに来なさい」という役で出てるんだっ)) てな事を言い始めたら自分でこんがらがりまして。それ止めたんですね、止めました。止めた事によってスッキリしたんだと思います。"神曲" なんて一生懸命読むからいけないんですよね?(笑)


毎日新聞:
監督にお訊きします。長編アニメで自分が作りたい世界観、伝えたい世界観、を表現できたという達成感があるかないか、もし悔いがあるとしたらなにか?

宮崎監督:
その総括はしていません。自分で「手抜きした」という感覚があったら辛いだろうと思うんですけど、兎に角辿り着けるところまでは辿り着けたと、いつでも思ってましたから、終わった後その映画は観ませんでした。ダメなところは判ってるし、いつの間にか直っているということも絶対ないので、振り向かないように振り向かないようにやってきました。同じことはしないと、「同じこと一杯した」と言われるんですけど(鈴木Pを見る)、あのう同じ事はしないつもりでやってきたんです。そういうことですが、お答えになってますか?


日経新聞:
監督、スタジオジブリを立ち上げたのが40代半ばだったと記憶しています。それから今まで、日本社会はどういう風に変わってきたと感じているでしょうか?「僕の70代が終わってしまう」と引退の辞にありますが、どんな70代にしたいお考えですか?

宮崎監督:
ジブリを作った時の日本を思い出すと、浮かれ騒いでいる時代だったと思います。経済大国になって、日本はすごいんだって言う風にね。ジャパンイズナンバーワンとかね、そういう事を言われていた時代だと思うんです。それについて僕はかなり頭にきていました、頭にきてないとナウシカなんか作りません。でも、そのナウシカ、"風の谷のナウシカ" それからラピュタ、トトロとか、魔女の宅急便ていうのは基本的に「経済は勝手に賑やかだけど心の方はどうなんだ?」とかね、そういうことをめぐって作ってきたんです。でも、1989年にソ連が崩壊して、それから日本のバブルも弾けていきます。その過程で、もう戦争は起こらないと思ってたユーゴスラビアが、まぁ僕が勝手に起こらないと思っていただけなんすけど、凄い内戦状態になるとか、本当に歴史が動き始めました。今までの自分たちが作ってきた作品の延長上には作れないという時期が来たんです。その時に体(たい)をかわすように、豚を主人公にしたり、高畑監督は狸を主人公にしたりして、切り抜けた(苦笑)、って言ったらヘンですけれども、それから長い下降期に(日本は)入ったんです。「失われた10年」は「失われた20年」になり、ね。半藤一利さんは「失われた45年になるであろう」と予言してます。多分そうなるんじゃないかと。そうすると僕らのスタジオは経済が昇り調子の、こうなってる、バブルが崩壊するトコで引っ掛かってたんです。それがジブリのイメージを作ったんです。その後ジタバタしながらですね "もののけ姫"を作ったり、色々やってきましたけれど僕のこの "風立ちぬ"までズルズルズル‥と下がりながら、「これは一体どこへ行くんだろう?」と思いつつ作った作品だったと思います。只このズルズルズルが長くなり過ぎると、最初に引っ掛かっていた、ナウシカ以降の引っ掛かりが持ち堪えられなくなって、ドロっと(ズリ落ちて)行く可能性があるところまで来てるんじゃないか?いや抽象的な言い方で申し訳ありませんが。僕の70代というのは半藤一利さんとお話した時よく解ったんですけど、そのズルズル落ちていく時に自分の友人だけではなく、一緒にやってきた若いスタッフや、隣の保育園に居る子供たちの生きている所が自分の横にあるわけですから、なるべく背筋を伸ばして半藤さんの様にキチンと生きなければいけないと思ってますけど。そういうことだと思います。


中国中央テレビ局ビジネスチャンネル:
中国のジブリファンの代わりに質問したい。将来、ジブリの作品を中国で上映する可能性はあるんでしょうか?

鈴木P:
これは星野さんから喋ってもらっていいですかね?

星野社長:
ご存じの通り、中国は外国映画のクオーター(quota/配分)という(映画輸入規制)制度があって、その本数が段々規制緩和で増えてる状況はよく解っていますけれども、まだまだそういう面では本格的に映画作品、日本の作品が上映される流れは未だ出来てないと思います。前向きに考えては居ますけれども、現時点ではジブリの作品が上映される状況ではありません。

中国中央テレビ:
監督は色々な人に尊敬されているが、逆に先生から見て、好きな作品や監督はいらっしゃいますか?

宮崎監督:
さっきもお話したように、僕は今の作品を全然見ていないので、ノルシュテインは友人だ、あのピクサーの‥あのジョン・ラセターは友人です。それからイギリスのアードマン(・アニメーションズ)にいる連中も友人です。皆ややこしいところで苦闘しながら色々やっているという意味で友人です。「競争相手ではない」と僕はいつも思ってるんですけど。それから、今の映画は見てないんですよ本当に。申し訳ないんですけど。だから‥すみません(苦笑)高畑監督の映画は観ることになると思いますが、まだ覗くのは失礼だから覗かないようにしてます。


日本テレビ ZIP!:
弟子ともいえる存在の庵野秀明監督さんや、スティーブン・アルパートさんら縁の深い方が出演されてますが、このキャスティングの裏に何か思いはあったか?

宮崎監督:
んー‥えー‥、その渦中にいる方は気が付かない、と思うんです。つまり、毎日テレビを見てるとか日本の映画いっぱい観てるとか、そういう人達は気が付かないと思うんです。吹き替えのモノを観てるとかね。でも一回‥、つまり僕は東京と埼玉県の間を往復して暮らしていますけど、さっきも言いましたように映画は観てないんです。テレビも見ていません。で自分の記憶の中に甦ってくるのは、特に "風立ちぬ"をやってる間に甦ってきたのはモノクロ時代の日本映画です。昭和30年以前の作品ですよね。そこで暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしている若者や男女が出てくるような映画ばっかり観てたんで、その記憶が甦るんです。それと、今の、失礼ですがタレントさん達の喋り方を聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感の無さだろうと思います。庵野もスティーブン・アルパートさんも、存在感だけです。(笑)かなり乱暴だったと思いますけど、でもその方が僕にとっては映画にピッタリすると思いました。でも他の人じゃ駄目だったとは思わないです。菜穂子をやってくださった人なんか、みるみる間に本当に菜穂子になってしまってちょっと愕然としました。そういう意味でこの "風立ちぬ" という映画は、ドルビーサウンドだけれどドルビーではないものにしてしまう、周りから音は出さない、それから がや は‥がや っていうの「がやがや」とか「ざわざわ」っていうやつですけど‥20人も30人も集めてやるんじゃなくて、録音監督は、録音じゃなくて音響監督は「2人で済んだ」と言ってます。つまり、昔の映画はソコで喋っている所にしかマイクは向けられませんから、周りでどんなに色んな人間が口を動かして喋ってても、それは映像に出てこなかったんです。その方が世界は正しいんですよね。僕はそう思うんです。それを 24chなったらアッチにもコッチにも声を付けろって、それを全体にバラ撒くって結果ですね、情報量は増えてるけれども表現のポイントは物凄くボンヤリしたものになっているだと思います。それで思い切って、美術館の短編を幾つかやっていく内に色々試みてたら、これでいけるんじゃないかと私は思ったんですけど。プロデューサーが全く躊躇わずに「それでいこう」と言ってくれたのが本当に嬉しかったですね。それから音響監督とも正に同じ問題意識を共有出来て、それ(試み)が出来た。こういう事って滅多に起こらないと思います。それと、これも嬉しいことでしたが、色々なそれぞれのポジションの責任者たちが例えば、色(彩設計)だとかや背景だとか、動画チェックする人だとか、それぞれのセクションです。制作デスクの女性も、音楽の久石さんにも、って一番最後に言うのは問題あるんですけども、何かね、円満な気持ちで終えたんです。こういう事は初めてでした。もっと尖がってギスギスした心を残しながら終わったものなんですが。こんなに、こう、なんといんですかね、僕のつい、「僕のお通夜に集まったようなスタッフだ」と言ったんですけど、20年ぶり30年ぶり位のスタッフも何人も参加してくれてやりました。そういう事も含めて映画を作る体験としては非常に稀な良い体験として終われたので、ほんとに運が良かったなと思っています。


香港 ケーブルテレビ:
5年前ポニョ公開前、監督と個別インタビューをしたのですが、そのときと比べて随分痩せている気がします。失礼かもしれないが今の健康状態は如何ですか?仕事が大変すぎて痩せてるんですか?

宮崎監督:
いま僕は正確に言うと63.2kgです。実は僕は50年前、アニメーターになった時は57kgでした。それが60kgを超えたのは結婚した所為なんですけど、つまり三度三度飯を食うようになってからです。一時は70kgを超えました。その頃の自分の写真を見ると醜い豚のようで辛いです。映画を作っていく為に体調を整える必要がありますから外食を止めました。朝ご飯はシッカリ食べて、昼ご飯は家内の作った弁当を持って来て食べて、夜は家へ帰ってから食べますけれどご飯を食べないでおかずだけ食べるようにしました。別にキツくない事が判ったんです。そしたら、こういう体重になったんです。だから、女房の協力のお陰か陰謀かわかりませんけど、これで良いんだと思ってるんです。僕は最後は57kgになって死ねるといいなって思っています、(この仕事を始めた)スタートの体重になって死ねりゃいいと思ってるんですけど。健康は色々問題があります、ありますけれど、とても心配して下さる方々がいて、寄って集(たか)って何かやらされますので、しょうがないからそれに従ってやっていこうと思ってますから、なんとかなるんじゃないかと思います。

(今は健康ということですね?)

宮崎監督:
あのね、映画を1本作るとヨレヨレになります。どんどん歩くと体調が整ってくるんですけど、この夏はものすごく暑くて、上高地行っても暑かったです。僕は呪われていると思ったんですけど。まだ歩き方が足りないです、もうちょっと歩けばもう少し元気になると思います。


週刊金曜日:
先ほど「町工場のオヤジ」と自称しましたが、その町工場のオヤジが敢えてこの夏、ジブリから出してる小冊子「熱風」を通じて「憲法を変えることなど以ての外」という論考、談を発信された理由を改めてお聞かせください。また星野社長に、宮崎監督は「日本のディズニー」と称されることもありますが、ディズニー出身の社長としてそのように表現されることをどう感じますか。

宮崎監督:
熱風から取材を受けまして僕は思っていることを率直に喋りました。もう少しちゃんと考えてキチンと喋れば良かったんですけれど「ああもう駄目だよ」という話しかしなかったものですから、ああいう記事になりました。別に訂正する気も何もありません。じゃあ、それを発信し続けるのか?って言われましても、さっきも言いましたように僕は文化人じゃありませんので、その範囲で留めていようと思います。それから、その後の質問は星野さんに。

星野:
実は「日本のディズニー」という呼ばれ方は監督がしている訳では一切ありません。2008年に公けの場で宮崎監督が或る外国の特派員記者から(いまと)同じ質問を受けた時にお答えになってますが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーであった、自分の場合はプロデューサーがいる」。鈴木さんのことだと思うんですけど、そして 「ウォルト・ディズニーさんは大変優秀なクリエイター、("ナイン・オールドメン"という九人のアニメーター、有名なお話ですけれども)大変優秀な人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と明確に仰っています。私自身もディズニーに20年近く居ましたしディズニーの歴史を一生懸命勉強する中で、(宮崎監督とディズニーは)全然違うなと感じております。そういうことで、日本のディズニーでは無いと思ってます。

(熱風での論考発表に至った経緯は?)

宮崎監督:
鈴木プロデューサーがですね、(あれ中日新聞だっけ?)中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんの所に色々ネットで脅迫が届くようになった。それを聞いて鈴木さんに「冗談でしょうけれど、電車に乗るとヤバイですよ、ブスッとやられるかもしれない」とかいう風な話があってですね、これ(この件)で鈴木さんの腹が刺されているのにコッチは知らん顔してる訳にはいかないから、僕も発言しよう、ついでに高畑監督も発言して貰ってですね、3人居ると的が定まらないだろう、みたいな話で、(熱風で)発言しました。それが本当の処です。あのう、まぁまぁ。脅迫した人はどうも捕まったらしいですけれども、詳細は分かりません、はい。


フジテレビ:
作中に「力を尽くして生きろ、持ち時間は10年だ」とありますが、監督自身 振り返られて思い当たる10年はありますか?その理由はなんでしょうか?監督自身が願う、なって欲しい、この先10年とは?

宮崎監督:
僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が最晩年ですけどエッセイで、旧約聖書の伝道の書から「空の空なればこそ」というエッセイと、もう一つありましたね、で書いて下さったんです。その伝道の書の中に「汝の手に堪ふることは力をつくしてこれを為せ」という言葉があるんです。それだけじゃないんですけど、非常に優れて解り易く。僕は堀田善衛さんが何か書いて下さると、解る人間が「お前アタマ悪いからもう一回解るように書いてあげるからやる」って感じで、書かれているような気がしまして。この本はずっと私の手元にあります。10年というのは僕が考えたことではなく、「絵を描く仕事をやると38歳ぐらいに大体限界が先ず来て、そこで死ぬやつが多いから気をつけろ」と僕は言われた(笑)んです。自分の絵の先生にです。それで(大体10年位なんだな)と思った。つまり僕は18歳の頃から修行を始めましたんで。そんな事をボンヤリ思って、つい「10年」と言ったんですが、実際 監督になる前にアニメーションは世界の秘密を覗き見ることで、風や人の動きや色んな表情やまなざし、体の皮膚・筋肉の動きそのものの中に、世界の秘密があると思える仕事なんです。それが解った途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くて、やるに値するものだと思った時期があります。その内 演出をやるとか起こって段々ややこしくなるんですが、その10年は何となく思い当たります、その時の自分は本当に一生懸命やってたって風に、今から言ってもしょうがないんですけど。これからの10年に関しては、あっという間に終わるだろうと思ってます。それはあっという間に終わります。だって、美術館を作ってから10年経っているんですよ、つい、この前作ったと思っていたのに。これから更に早いだろうと思ってます。そういうもんだろうと。それが、私のアレです、考えです。


フジテレビ:
引退を決めたことを奥さんにはどうような言葉で伝えて、どのような言葉で答えがあったか?子供たちに「この世は生きるに値する」と伝えるのが根幹にあるとのことだが、この数十年の制作の中でこの世の定義も変容したのではないか、2013年の世の中をどう定義しているか?希望があるのか?

宮崎監督:
家内には、「こういう引退の話をした」と言いました。そして「お弁当は今後も宜しくお願いします」と言って、「ふん」と言われましたけど。(笑) 常日頃から「この年になって、まだ毎日弁当を作っている人なんていない」と言われておりますので、「誠に申し訳ありませんが宜しくお願いします」と、そこまで言ったか言ってないか、覚えてませんが。というのも、外食が向かない人間に改造されてしまったんです。以前にしょっちゅう行っていたラーメン屋に行ったら余りのしょっぱくさにビックリして。味が薄いものを食わされるようになったんですね。そんな話はどうでもいいですが。
「この世は生きるに値する」ことについてのご質問ありましたけれど、僕が好きなイギリスの児童文学作家で、もう亡くなりましたけど ロバート・ウェストールていう男がいまして、その人が書いた幾つかの作品の中に、自分の考えなければいけないことが充満している、というか満ちてるんです。「この世は酷(ひど)いものである」、その中でこういう台詞があるんです。「君はこの世で生きて行くには気立てが良すぎる」、そういう台詞がありまして。これは少しも褒め言葉ではないんです。そんな形では生きていけないぞと言ってる言葉なんですけど。それは本当に胸を打たれました。僕が発信しているのではなく、僕は一杯色んなものを受け取っているのだと思います。多くの書物というほどではなくても読み物や昔観た映画から受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返し「この世は生きるに値する」だって言い伝え、ホントかな?と思いつつ死んでいったのではないかってふうにね。それを僕も受け継いでいるんだって思ってます。


読売新聞:
鈴木プロデューサーに。引退発表の場所とタイミング、ヴェネチア映画祭の会期中だったが、この判断の理由も詳しく。

鈴木P:
ヴェネチアでコンペがあって出品要請、実はコレ、かなり直前のことだったんです。引退を社内で発表して、今日(9/6)引退の公式発表するというスケジュールは前から決めていたけれど、そこへ偶然ヴェネチアのことが入ってきた。僕と星野で相談して、先程からご承知の様に宮さんには外国の友人が多いから、ヴェネチアって所で発表すれば、ちょっと言葉を選ばなければいけないけれど、一度に発表できるなと(笑)考えた訳なんですよ。元々こうも考えていたんです、まず引退を発表して、その上で会見する方が混乱も少ないだろうと。当初は東京でするつもりでした、皆さんにFAXその他送って。ちょうどヴェネチアが重なったものですから、ジブリからも人が行かなければいけないし、そこで発表すれば手続きを減らす事が出来ると、只それだけのことでした。

宮崎監督:
ヴェネチア国際映画祭に正式に参加すると鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです(笑) なんだか「え?」っていうふうに、星野さんが言ってるとか。「あぁそうなんだ」ってそんな感じでございまして。これはプロデューサーの言うとおりに俯すしかありませんでした。


富山県の北日本放送:
文学作家の名前の中に富山出身の堀田善衛を学生時代から読んでおられると伺っております。"風立ちぬ"の中でも、「力をつくせ」ですとか「生きねば」というメッセージが込められているが、改めて最後の集大成となった本作で堀田善衛から引き継いだメッセージのようなもの、監督がどういう思いを込めて作られたのか教えて下さい。

宮崎監督:
自分のメッセージを込めようと思っては映画は作れないんですよね。こっちでなければいけないと思いそっちへ進んでいくのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識では掴まえる事が出来ないんです。掴まえられる事に(創作が)入っていくと大抵陸(ろく)でもないところにいくんです。自分でもよく解らない処に入ってゆかざるをえないんです。最後に風呂敷を閉じなければいけません映画って。「未完」で終わられても良いのならこんなに楽なことはないんですが、いくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残り秒数は減っていくんです。それが実態でして、台詞として「生きねば」があったから。これは多分 鈴木さんがナウシカの最後の言葉を引っ張り出してきてポスターに、僕が書いた「風立ちぬ」と書いた字よりも大きく「生きねば」と書いて(会場笑)これは(鈴木さんが、番を張ってるなぁ)と思ったんですけど(笑) どうでもいいんですけど(笑)。僕が「生きねば!」と叫んでるように思われてますけど、僕は叫んでおりません。 ‥(苦笑)あのっ、でもそういう事を含めて宣伝をどうするか、どう全国展開していくかが鈴木さんの仕事でして、それ(を彼)は死に物狂いでやってますから、僕はもう全部任せるしかありません。そういう訳で何時の間にかヴェネチアに人が行ってるという‥。その前に何とか映画祭に「パクさんと出ませんか?」って、いやぁ「勘弁してくれ」と言った。ヴェネチアのことは何も言われなかったんです。先程(鈴木Pが)「そう言えばそうですね(言ってなかったですね)」と言ってシラをきってますけど、そういう訳でして‥

鈴木P:
コメントを出してますよ?

宮崎監督:
え?

鈴木P:
ヴェネチアに関して。いま思い出しました。

(リド島?)

鈴木P:
そう、リド島が大好きだって。

宮崎監督:
あ!僕はリド島が好きですよ(一同笑)。リド島と、カプローニの子孫、と言っても孫ですけど、イタロ・カプローニってその人が偶々(たまたま) "紅の豚" を観てですね、自分の親父の、いや爺さんのやってたカプローニ社の社史、会社の歴史ですね、飛行機の図面とか解り易く構造図を描いたものが、(片手で空に角を描く)こんな大きな本で、しかも、─だから日本に一冊しかないと思いますけど─ 突然イタリアから送ってきまして「いるならやるぞ」って書いてあったんです。日本語で書いたあったわけじゃないですけど、「ありがたくいただきます」と返事を書きました。それで僕は(今まで)写真で見たヘンな飛行機としか思ってなかった物の構造を見ることが出来たんです。ちょっと胸を打たれましてね、技術水準はドイツやアメリカに比べると遥かに、原始的な木を組み合わせるとか、そういうものですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えるようなことをやっていた この人(カプローニ)は。と思ったんです。ジャンニ・カプローニという設計者はルネッサンス(時代)の人だと考えると非常に良く理解できて。つまり経済的基盤のない場所で航空会社をやっていくには相当ハッタリもホラも吹かなきゃいけない。その結果(理由で)作った飛行機が(たまたま)航空史の中に残ってたりね、するんだって事が判って、とても好きになってんです。こんな事も今度の映画(製作)の引き金になってますが。溜まりに溜まったもので出来ているので、自分の抱えているテーマで映画を作ろうと思ったことは毎度あまりありません。殆ど、僕の処へ突然送られてきた1冊の本とか、そういう物が、随分前(のこと)ですよね、 蒔かれたものが何時の間にか材料になっていく事だと思います。どうも。

(もう一点、いろんな作品の中で堀田善衛が言った事を根底におかれているのかなと、富山県の人間としては思っているのですが、宮崎さんにとって堀田善衛はどんな作家ですか?)

宮崎監督:
さっき「経済が登り坂になって、どん詰まりになって、おっこちてとか」ね、そういう話をよく解っているように言ってますけど、しょっちゅう解らなくなったんです。それで "紅の豚" をやる前も世界情勢をどう読むのか分からなくなってる時に、堀田さんってそうな時にサッと短いエッセイだけど書いたものが届くんですよ。自分がどこかに向かっているつもりなのにどこへ向かっているか分んなくなった時に見ると、ほんとブレずに堀田さんって人は現代の歴史の中に立っていました、これは見事なものでした。それで自分の位置が分かるということが何度もあったんです。堀田さんがひょいと書いた「国家はやがてなくなるから」とかね、そういうことがその時の自分にとってどれ程の助けになったかと思うと、(大恩人の一人だ)と僕は思っています。

星野社長:
お時間ですので、最後の質問という事でお願い致します。


東洋経済:
初期作品は2年3年間隔だったが、今回は5年。これは年齢によるもの以外に創作の試行錯誤や作品への思いなど、時間の掛かる要因があったのでしょうか?

宮崎監督:
1年間隔で作ったことも(鈴木Pに)あるよね?あります。最初のナウシカ‥はちょっと違うんですけども、ナウシカもそれからラピュタもトトロも魔女の宅急便も、それまでに演出をやる前に手に入れていた材料が溜まっていて、出口があればばっと出ていく状態になってたんです。そのあとは、さぁ何を作るか探さなければならない時代になったから、だんだん時間がかかるようになったんだと思いますけどね。あと、最初の "ルパン三世カリオストロの城"は4ヶ月半で作りました。それはそれなりに一生懸命やって寝る時間を抑えてでも何とか持つってギリギリまでやると4ヵ月半で出来たんですが、その時はスタッフ全体も若くて同時に長編アニメをやる機会は生涯に1回あるかないかみたいな、そういうアニメーター達の群れがありましてですね、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理なんです。歳は取るし所帯もできるし、「わたしを選ぶのか仕事を選ぶのか」みたいな事を言われる人間が(現場に)どんどん増えてくるってね。今度の映画では、両方選んだ堀越二郎を僕は書きましたけれど、これは面当てではありません(笑) いやぁまぁそういう訳で、時間が掛かる様になったんです。同時に自分は1日12時間机に向かっていても耐えられる状態ではなくなりましたから、実際多分机に向かってた時間はもう7時間が限度だったと思いますね。あとは休むかお喋りしてるか飯を食ってるとかね。打ち合わせとか「これをああしろこうしろ」とかいうこと(指示)は、僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計な事で、机に向かって描くことが(自分の)仕事で、その時間を何時間取れるかって事です。それがねえ、この年になりますとどうにもならなくなる瞬間が何度も来る。その結果なにをやったかと言いますと、鉛筆をパッと置いたらそのまま帰っちゃう、片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリつけようとか、一切諦めたんです。やりっぱなしです、やりっ放しで放り出したまま帰るっていうような事をやりましたけど、それでも限界ギリギリでしたから、(これ以上続けるのは無理だ)って、「じゃあそれを他の人にやらせればいいじゃないか?」ってことは、僕の仕事のやり方を理解出来ない人の言い方ですから、それを聞いても仕方が無いんです。出来るならとっくの昔にしていますからね。という訳で5年掛かりましたが、その間、どういう作品をやるかについては方針を決めてスタッフを決め、(た上で)シナリオを書く(手順を)やってます。やってますけど、でも "風立ちぬ"は5年掛かったんです。から考えますとですね、"風立ちぬ" の後どう生きるかは正に今の日本の問題で。この前ある青年が訪ねてきて、映画の最後で丘をカプローニと二郎が下っていきますけど、「その先に何が待ってるかと思うと本当に恐ろしい思いで観ました」と、これビックリするような感想だったんですけど。それは、この映画を現在(こんにち)の映画として受け留めてくれた証拠だろうと思い、それはそれで納得しましたが、(という所に僕らは居るんだ)と云う事だけはよく解ったと思います。質問に答えたことになってるのかよく分りませんけれども、そういうことです。

星野社長:
これをもちまして、質疑応答を終わらせていただきます。最後に改めて宮崎さんからご挨拶をお願い致します。

宮崎駿:
あのう、こんなにも沢山の方が見えられるとは思いませんでした。本当に長い間、色々お世話になりました。もう二度とこういう事はないと思いますので、ありがとうございます。(笑顔)

(拍手の中、鈴木氏、星野社長と握手)

星野社長:
以上を持ちまして、スタジオジブリ記者会見を終了させて頂きます。本日はお越し下さいまして大変ありがとう御座いました。

(礼、退場)


最後に会見への意見です。

世間の辛口評論家からは「ロリ(&ババ)コン監督だ」、なんて言われてしまう程、嗜好明らかな設定を娯楽アニメ大作として世に放ってきた方ですが、最後は普通に "一時代を築いたアニメの巨匠" として語られたようです。

どうでしょう、この会見を見て、この監督に老いを感じた人は少ないと思います。72歳という年齢を考えると、未だシッカリ発言しており思考反応速度に老いを感じさせないと思います。容貌からすると少々年下の鈴木Pの方が年上にも見えてきそうです。この人は喫煙者ですが小奇麗な白髪に映える褐色の肌は具合が良さそうですね(笑)。
会見では幾分独創性で抜きん出た人物らしい頑固さを現す発言もあったようですが、これほどの人間になると、その生活を看るスタッフや制作関係者、それと私生活に深く係わろうとする人間も多かったことでしょう、ピンからキリまでの他人に触れる話もありました。また、時折物議を醸す発言をした事については、よくある "期待せず公人になってしまった人がインタビューを受け馴れた場所でその時々の心境や世間への不満などを一人二人の質問者らに快く軽々しく喋ってしまう" ようなもので、公開直前直後に不評を買った「熱風」での論考、その真意と経緯も判明した会見となっています。熱風の件は回答どおり、前もって言うべき方向性が決まっており、多少「刺せるものなら刺して見ろ!」という、あの世代にある強気があったようです。

意外だったのは、日経新聞の質問に対する答えから、近年の日本経済が作品構想に関与していたとかズブリ影響されていた件です。よく言うと「日本の一時代を反映したアニメ映画」と考えるかも知れませんが早計です。バブル期には社会を批判したのに、バブル崩壊低迷後は世に出す構想を見失い模索しながら「切り抜け」売れる映画を作ったとか、何ですかねコレ? 非常に心許無い創作構想だったのですね、スタジオジブリの沿革を示すとおりの実態が監督の口から出てきました。なるほど、町工場のオヤジです。

これからのジブリはどうなるか?に対し「重石の取れたスタッフが自分と同じように恐れず作品を創造していく勢い自立性独立性だ!」と激を飛ばしていますが、近年の映画公開に合わせ「ジブリ○00日製作ドキュメント」番組が放映されます。ジブリの仕事風景と雰囲気を観察できるのですが観察力がある人はあのスタジオの優れた人材に何かしら独創性を、、いや止めておきます。毎年公開できる制作力は凄いことなのでしょうが、「もっと人材育成に努めていたら・・・あれ程のスタジオでも人材牽引・能力開発できないのか?30年経って後継者が居ない?」と私は憤ります。なにをしていたんですかね?ただ自分がやれることをしたというのですが、それは作品を創るだけだったのですか?それでも人の親ですかね?

この人と吾朗監督との年齢関係は、私のと似ています。だからこそ歯痒いんです。もどかしい。「自分が出来ることを行い、そして責任を成したとする」そういったこの世代の生き様は温かさや厚さじゃないんです。無知で無神経で浅はかなのです。

私はボニョの頃から不気味さを感じていました。ネットレビューで「子供向けの絵本を大人も見られるものにしたから気味が悪い」とありましたが、私は この社会に広く視聴されるアニメ作品を公開する人物としては責任や規範が欠如していると感じました。この理由を今会見で得ることは無い様なのですが、抽象的に言いますと‥

力や権力を得た人間たちの(無意識な)共有意識が、彼らの老いと共に社会への憂いを強く帯び、憂いを晴らすでもなく只"憂い"を訴え増幅させるだけの社会を、その権力と力を用いて構築していく恐ろしさがあります。

彼らの憂い・不安とは彼ら自身の老いへの不安なのですが、そのような個人感情が元で、この社会の物事を決めて行く実態もある訳です。近年の経験から「後世に~」と将来(子孫)世代へ負担を軽減するとか体の良い言葉が好まれておりますが、彼らの言葉上の希望・要望と、その行動とは全く反したものです。彼らは意図せず緩やかな社会衰退を行っている、この理由はジブリの現状がハッキリ示しています。

こうした国家と民族の本質に係わる点で不気味さを感じた会見でもありました。私は「力のある老人はなるべく早く引退し死ぬべきだ」と思いました。彼らが長活き(現役)することによる不都合こそ、失われ失われていく数十年なのです。特に日本は老人の為の福祉国家となります。ですから、この会見から余計にその実態が見えてくる気がしてなりませんでした。老いた人間たちが無様な社会論を見せると、戦後68年全てが単に中身の無い勢いだけだったと評されます。そんな中で「ジャパンの栄光を築いた」とか言わないで欲しい。

では最後に。多少コピペさせて貰いましたが、分量的に大変だった この会見文字起こしは、私が行う迄も無く既に各メディアで作成されておりまして(笑)「何無駄なことしてんだ俺」と思い途中で放り出そうとしましたが、確実に理解が進むのでやり切ったのです。

ここ最近テレビやネットを見る機会が増えた老齢世代の方々は、不幸な事象や過去(歴史)に関し軽々しく同情や憂いを口にしますが、止めて頂きたい。それは老いた人間の責任でも性(さが)でもない、ただの世捨て思考です。私は偶々ここを閲覧した老齢・引退世代が怒りに悶絶し血圧を高め激しく動悸するよう敢えて書いております。その為に文字起こしを餌にした、かも知れない。貴方が仮に私と同じ年代に戻れたとしても負けぬ気概で意見しております、では失敬。

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