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どぅーしてココに着ちゃったの?!
  ここは redo_chan という、よく分らない匿名ユーザーが鉄則から外れてブログっている Blog です。

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CV - 複雑を経て単純へ

長くツイートしたものはブログ記事にする作業。こうでもしないとココの更新が滞るので。

歴史認識の違いを各国々は妥協とし正論とするが、それは戦勝国または戦争被害国の権利である。
敗戦国は少なからず自省と自虐観を持つ。パール判事は子孫が自虐観念に囚われることを憂い、自分を責めていた。

誰もが過去に、大小自他を問わず、何かしらの蟠(わだかま)りや怨みを持っているだろう。しかし、これを最終通告として持ち出す魂胆なら、今よりこれからに生きるものの資格はない。所詮、学習や記憶であり、果ては笑い話にしかすぎないからだ。前を見る方が少なくとも正しい。振り返った時に陰鬱な気分になるだけ、ではなく飲み込んで背負って歩くことの素晴らしさや逞しさ、即ち人間らしさを教える方が厳しく強靭なのだが、そうとは教えてくれない。だいたい宇宙全域において知的生物は悉く罪人なのだけれど。
揉めた何某と再度友好する必要は全く無いし無理だが、そういった者とこれからも同じ時代を生きていく事からは免れないし、対象の存在は消せない。けれど、そもそも生活圏全域に存在する人間を全認識している訳でもないだろう?

全てを知るよりも、ちょっと知るだけで良い。そもそも常日頃から部分認識で留めて済ませるしかない。全てを知るのは中々難関だ。部分的な知識だけでも考えは回る、全部知っても同じく考えは回る。人それぞれに回答を出す計算式(脳みそ)があり、これに変化も進化も無ければ知識は分量を問わない。根本を向上させる意識を保つのは大事だ。

知識の分量によって、認識<理解<容認<情<共生と進むのかも。老いても伴侶と連れ添う人生(修行)を全うした人は内面の仕上がりが確かに寛容だ。だから、こうなるのが慣例であり義務であり使命であると確かに云い得てしまう。自我が強く我慢が利かず反抗と嘲笑に塗(まみ)れるのも修行かもだが。

決して纏め切れない多くの問題と苦悩を、寿命を全うする間中背負い切ることが出来たのなら、それぞれが臨終の際に納得はするだろう。納得の仕方よりも、付け方が先と思うが。
そうして過去や世界の大問題は消え失せ、小さな個人の問題に終始するのである。
11:33 via Saezuri

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