毎回、私はトイレへ行こうと椅子を発ち、用を済ませ戻ってくる間に妙な事を考えている。
先程は、、、「拙者(私)が表彰とか褒章とか誉れに肖(あやか)ったのは殆ど十代だけで、歳追う事に多少なりとも称賛に値する実績には無縁である」と思い付いた(てへへ)。こんな自分を省みた時に考え出せる理由とは「飽きが来て継続しなかったからだ」と結論付けした。そして現代の若者や青年に対して、、、「例え芽が出なくても、一つでも取り組める何かしらの事柄があれば、これを正しく学び、時を費やし気持ちを注ぎ、孤立し過ぎる事無く交流を保ち、緩やかにでも深みを増し、これらに精進しながら現実的に技術&能力の活用として生活若しくは人生に組み込むのなら、必ず称賛に値する大きな力となり、生活や周辺に良い影響を与えますぞ(キッパリ!)」
と云う、お高いメッセージ付きまで考え出し、ツイート上で公表した後で例の様にこのブログに移し纏めた。用事を済ませる間の雑感を、覚えている限り TWのネタに使うのだから、私が頻繁にTWを吐く時は「トイレの回数が多いんですね」という事がバレてしまう。
さて、所謂「継続は力なり」と言われるが、平々凡々でも続ける事が結局は個人の歴史と財産になる。・・・ん? いやいや、こういう事じゃないだろう。
格言の原典から離れ、”毎度あてくしの自論で御座います”と申し置きますが、そもそも継続とは思う以上に困難を極めるものだと結しておりますじゃ。
自分が続けたくても周りの変化がこれを許さなくなるかも知れない。極めた心境になり筆を置くこともある、置かざるを得なくなることもある、天才肌の持ち主が一発ドカーンと当てた挙句に不得手で余計な事に手を出し毟り取られて転落する。僅かな生活環境の変化でも気分転換と称し「生活に彩り足りねぇ、血が足りなねぇぇ!」とばかりに、ライフチェンジしていると継続(習慣)なんて出来っこない。「踏ん切りを付けて他へ進む」のも一種の継続放棄、過去清算であり、こういった「どうかしてるぜ!いつまでもやってられないぜ!」という転換転進を「自己向上と経験学習成長」に書き直して今日に到る経験(記憶)は結構多くの人に当てはまるのではないか、と思う。
体が云う事を利かなくなり継続断念する場合もある。誰しも徐々に突然に体調変調がある。日々働く人なら誰でも付き纏う不安が健康維持である。
経済や法律事情、世界事情や環境の激変、不運な事故や災害、生きている間に結構世界は変わる。生きる分だけ身を以って体験出来るだろう。各事変・事象の発生確率なんかはさて置き、「10年20年、10歳20歳30歳生きてりゃ、それなり何かあった」と誰もが言える(だから世のヨボヨボ老人でも人生話を聞くとスゲー面白い)。継続とはどんな事情でも断念しないことであるが、実際は継続できる環境に自分を置く/向ける事が肝心だ。戦略的継続なのだ。だから継続は難しい。
さて、原典を辿ろう
青年よ強くなれ
牛のごとく、象のごとく、強くなれ
真に強いとは、一道を生きぬくことである
性格の弱さ悲しむなかれ
性格の強さ必ずしも誇るに足らず
「念願は人格を決定す 継続は力なり」
真の強さは正しい念願を貫くにある
怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである
悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である
青年よ強くなれ 大きくなれ
住岡夜晃著『讃嘆の詩(樹心社)』より
http://homepage2.nifty.com/keizoku_ha_chikara/index.htm
今現在は青年・乙女である世代の君達も、のちのち年老いた時に、自分の過去や生涯をどう捉えるか、そしてどう覚悟を決めるのか、を考えたりすると思う。
これは真理・道理かも知れない。だから今の大人や老人達はそれなりに知っている・解っている。しかし、こうした先人(先祖)の体験のホントのトコロが若い世代へ語られる事は余りない。美徳とか恥とか敗者とか面倒だとか忘れたとか、まぁ先祖全ての記憶を保存継承することは出来ない。最近では家訓もないだろう。「先祖なんて遺物だ」と楽しく生き晩年ガクブルな人も多いかと思うが。
大体、話す側の老人が口下手や話下手なのがアカンのだ。話さなくなると笑いが無くなり、奇妙なタイミングで喜怒哀楽を出し始める。そうしてボケが早まり寂しく死んでいく。生命の継続がチカラどころでは無くなったら僅かな自己礼賛も砕けるだろう、そうして無我へシフトする。
永遠の話をしなくても、だからまぁ継続とは難しいよ、という雑記
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