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どぅーしてココに着ちゃったの?!
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spring,oh silence

PV
実在人物らが起こした、あの春の行動の断片が流れ、それぞれの憤りが映される。ある種の領域に達した表情を皆一様に備える。そこに達した彼らの、これまでの素性までも見えてきそうなカットの数珠。これまで培った全人生を奮わせる主張行動の矛先は、得体の知れない利己集団の総体だけではなく、これを見過ごす不特定多数の無表情な群集にまでも及んでいそうだ。相反関係下にある者同士を一対一のレベルにまで落とし込むと実際は相手を責め切れない。どちらかが意地を通し切るか諦めるか、または相手の存在を討ち消すしかないないが、これは許されない。そこで反体制と捉え敵視する。一人じゃ心許無いので共通理念体の一部に組する。そうして漸く一人独りが自分本位の主張を社会的に見て正当な主張群に融合させて落ちつく。共有化される果てにある恍惚感は結局両体制にある事かも知れない。尤も掃いて棄てる利用価値の一片となるか逆に利用するかは個々の思惑に依るだろう。
自分自身を恥じないことが持続の要(かなめ)だが、節目で省みる時の仮に恥となる部分を受け止める覚悟があるかないかは大事だろう。そもそも恥とも考えなければ面倒は減る。世の中は変わる。自分にとって制御の利く絶対的普遍世界じゃないんだから。自分の声を反映させるなら時には流れに乗ってみて変わってみせる工夫は要る。自分を少数若しくは大多数のどちらへ振るかは好みの手法でしかないだろう。手法すら拒めば誰も話を聞かなくなり何処の誰とも接触しない理由になる。こういう覚悟をしてしまったら自己思想とか自己哲学は生きるか死ぬかのどちらかに落とし込まれる点を解ってるかどうか。確かに「先の事は判らない自分」が何者か解らないでいるままの行動は自己理解不足だし、外部治療不可能の甘えだとは思う。例えば「生まれてしまったら負け」、この一文をどう思うか、どう受け止めても構いはしないが。
自分が生き易い世界を他人も棲む公共空間に構築しようとするのは自分の人生と命だけじゃ足りないんだよ、と慰めて上げたくなった。

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